台湾の原住民諸種族のこと。そのうち漢族化したものを熟蕃(じゆくばん),そうでないものを生蕃(せいばん)と呼んだが,これは日本の台湾領有(1895-1945)に先立つ清朝時代からの称呼であり,たとえば大陸の少数民族であるミヤオ(苗)族を,その漢族化の程度によって,熟苗と生苗とに分ける流儀である。しかし〈蕃〉には軽侮の語感を伴うので,日本時代の中ごろから生蕃という称呼を高砂族と改め,公文書などにもそれが用いられるようになった。他方,熟蕃に対しては,以前から漢族のあいだで行われていた平埔(へいほ)族(民間での使用頻度ではむしろ平埔蕃)という別称がしだいに採用されている。ただし,熟蕃,とくに多少ともインテリの部類に属する人々は,生蕃よりもはるかに開化したものと自認しながら,漢族からとかく〈蕃〉あつかいされるのが不満で,1932-33年ころ,〈東寧族〉という新しい称呼を公式に採用するよう総督府に陳情したこともあった。
第2次世界大戦後,中華民国政府では種々の面で日本色の除去につとめ,高砂族という称呼も〈高山族〉と改められ,これは大陸の中華人民共和国でも採用された。日本側では,たとえば豊臣時代に台湾を〈高山国〉と呼んでいたので,これは大して排日でもないが,高山族の高山が〈高い山〉を直接に意味するとしたら,これは問題であろう。あとでもふれるごとく,台湾東部平地のアミ,プユマ両族および蘭嶼(らんしよ)(紅頭嶼)の海岸諸部落に住むヤミ族は山地系でなく,1978年の統計によれば,これら3種族の人口は高山族総数の30%をやや超える。また,日本時代の末期,だいたい1930年代の早期には,官庁の奨励ないし強制により,山地原住民の過半が山麓諸地帯の低地に移住していた。他方,中華民国時代になると,高山族に対するおそらく宣撫工作的な愛称〈山地同胞〉またはその略称〈山胞〉が普及されたが,それが山地系か平地系かを区別する場合には〈山地山胞〉・〈平地山胞〉(つまり,山地高山族・平地高山族)という奇妙な合成語が広く用いられている。このような族名の選考において,個々の時代風潮や政府筋の政策意図が不可避的にからむにしても,〈高山族〉をそのまま,たとえば英訳するならば,無用の混乱や誤解を招くのではあるまいか。註釈なしでは英訳が困難だった〈高砂族〉の場合にもそうではあるが,いくらか長くなるにしても〈台湾原住民〉とか〈台湾原住民諸族〉あるいはそれに見合う,可能なら簡明な漢字をもってするならば,学術用語としても国際的に通用しやすいであろう。そして平埔族ないし平埔諸族の場合には〈漢族化したsinicized〉という形容詞をつけるだけでよいのである。
ところで,高山族,平埔族の双方を含めての台湾原住民諸族は,アウストロネシア語族のインドネシア語派に属する。この語派が分布する最北東地域が台湾なのである。そのような辺隅性は台湾原住民諸族の文化様態にさまざまな色調を与えたようで,ここでとくに目だつ点を若干あげるならば以下のごとくであろう。(1)台湾では陸稲が多少栽培されながらアワが重要であり,サツマイモやトウモロコシが日常食事で優位を占める場合にもアワの儀礼的重要性は失われていない。稲作を主とする東南アジア(島嶼地帯と大陸地帯)やマダガスカル島の諸族とは著しい対照を示している。東南アジアでのアワ作は,辺隅地や奥地で断片的にみられるだけである。(2)東南アジアおよびマダガスカルの比較的進んだ農耕民に広く見いだされる水田稲作ならびに水牛や牛の飼育も,台湾では元来知られていなかった。(3)台湾本島南部のルカイ,パイワン両族および南東方の離島のヤミ族では,アワの儀礼的重要性が保持されながら,タロイモ(サトイモの類)が日常食物として大きな比重を占める。東南アジアでもサトイモを主要食物とする事例が辺隅地や奥地に散見されるけれども,これらはむしろオセアニア的だといえるであろう。オセアニア住民の農耕文化は穀物栽培以前の文化波動をおそらく代表するもので,そこではヤムイモ(ヤマイモの類)またはタロイモの栽培を主とする。(4)2本の竹筒または木筒を並立させ,上下するピストン仕掛けにより下端の細管から交互に風を送って火力を強める通称マレー式ふいごは東南アジアからマダガスカルにまで広く分布するが,このマレー式ふいごが南部のパイワン,ルカイ両族と東部のアミ族とに用いられたことが,伝承のみでなく残存実物の発見によりしだいに明らかになってきた。この点,漢族化以前の平埔諸族がどうだったかについては,オランダ時代(1624-61)および北部台湾に関するスペイン時代(1624-42)の記録をさらに検討するしかない。他方,北部・中部山地,主として中央山脈の西側と東部平地では,磨製石斧と打製石鍬との表面採集が容易であり,山奥からのブヌン族古老のなかには,これらの石器と他の諸物品との交換基準まで相当くわしく伝承する者が1930年代になっても多少はいたのである。以上,有形文化ないし物質文化の若干項目に関する概観を試みたが,この程度の素描だけでも台湾原住民諸文化にインドネシア語派での何かしら〈古い〉姿を示唆せしめることになるであろう。
次に無形文化ないし精神文化になると,ここで目だつのは個々の種族に応じての文化的多様性である。約3万6000km2の面積をもつ台湾島は九州よりやや狭い。またオランダよりも広いが,スイスやデンマークよりも狭い。ところが,戦前ならいっそう明瞭だったのであるが,服装,用具,家屋や部落の様式さては容姿骨格など,外見上の諸特徴を一見しただけでも,種族間の差異はきわめて印象深いものがあった。さらに,社会組織や信仰・儀礼などについても種族差は著しく,これが彼等の生活行動や生活態度をさまざまに色調づけ方向づける。以下には若干の有力な種族をえらび,その間の多少とも顕著な対照を取り上げることにしよう。
北部山地のアタヤル族(セデク族を含む)と中部山地のブヌン族とを比べると,焼畑耕作と狩猟活動の様式とその背景をなす自然環境に大差がないのに,社会組織や生活態度などがはなはだしく異なる。アタヤル族では夫婦単位の小家族を中心に日常生活が展開され,結婚には当事者たちの自由意思が重んぜられ,嫁入婚が多いけれども聟入婚もまれではない。親族関係は父系・母系のいずれかに偏重せず双系的にたどられ,しかも第3いとこあたりは他人扱いとなる。村落は一般に密集的で,内部統制や外敵対処に際しての村民の団結性はしばしば観察されてきたが,諸事項の決定に関しては十分制度化されていないにしても一種の家長会議があり,そのうち勢力者たちの筆頭が統率者として登場する。本村からいくつかの分村を派生しても,それらが比較的近距離(概して大小渓流の同じ峡谷)にある限り,この種の団結性はなお存続し,これらの村々が合して一つの〈部族〉を形成する。しかし彼等はそれを越えたいっそう大きな社会的・政治的編成を可能ならしめる機構をもたず,ことに狩猟場の利害をめぐって敵対関係を生じやすい。
1931年の人口は3万3000あまりで,それが30ばかりの部族に分かれていた。部族間の交易や攻守同盟を通じての友交関係も見受けられたが,それは十分に持続的なものではなかった。かくして,このような狭くかつ閉ざされた部族社会では,貧窮,不名誉その他の行きづまりを打開するには自殺による現実逃避か,または(成年男子なら)首狩決行による威望回復しかない。他界表象も明確であって,部族のおきてに従う限り,祖霊への仲間入りがつねに期待されうるのである。
これに対し,ブヌン族は小家族への分立を好まず,しかも小部落ないし散在部落への傾向が目だつ。そして清朝時代の統治方式に原型が求められるというが,日本時代の諸事例をみると,いくつかの部落や散在部落を含む行政村に類する枠組みをまず導入するとともに,住民側での人望も顧慮しながら〈村の頭目〉が任命され,その後任者たちについても代々この要領で〈官選〉が行われている。ただし,これは村長というよりは官庁側と住民側との仲介者だとみなすのが適切である。ところで(ツォウ族南西の飛地に早くから分出し,ほとんど絶滅した1部族を除き)ブヌン族は5部族で人口は約1万8000(1931),部族の平均人口はアタヤル族よりもずっと多い。ブヌン族の分布圏のうち,その北西部が彼等の古い居住地域であるが,そのうちでの南部・中南部・中部を本拠とする3部族からの分出移民が互いに針路を異にしながら中央山脈を突破して東南に進み,さらに南部・中南部の2部族系統ははるかに南進してルカイ族と隣接する地域にまで,ここかしこに小部落を営むようになった。直接・間接の断片的な諸情報から推測すれば,中央山脈の突破は18世紀前半あたりであろうか。ルカイ族との接触は19世紀の半ばすぎになる。このように部族境域が拡大し,多くの歳月が経過した場合,これがアタヤル族だったら,部族の分裂は不可避だったであろう。ところが,ブヌン族では村落レベルにおいてさえ,地縁的結合を保持・強化する社会的・政治的機構が明確でない。それにもかかわらず,ブヌン族では部族の内部秩序がよく保たれ,部族の分裂が容易に行われなかったのは,どういうわけであろうか。
それについては,ブヌン族の社会を特色づける血縁的ないし擬制血縁的な出自集団組織という角度から事態を観察するのが適当であろう。すなわち,各部族それぞれに大・中・小の3段がまえの父系氏族組織があって,大氏族内の婚姻禁止,母方中氏族との婚姻禁止,および同じ中氏族の女子たちから生まれた人々の婚姻禁止という3原則から制約され,しばしば遠地から嫁を求めなければならず(もっぱら嫁入婚),直接・間接に通婚関係が部族内で網の目のように交錯している。しかも姻戚中氏族や母方中氏族との相互的な儀礼的贈与慣行を入念に規定されていて,これらのことは氏族間の対立を防止するのに効果的であろう。他方でブヌン族の家族には〈同居人〉が珍しくはない。貧困者や孤児は父系氏族関係をたどって容易に同居先を見いだしうる。また,不名誉なことがあれば山々のかなた遠くの同一氏族の家に逃避できる。ブヌン族のあいだで自殺が皆無に近いのは,これらの事情と関係あるかもしれない。ブヌン族の生活目標は多量のアワを屋内穀倉に積みあげ,ブタをふやし,種々の機会にアワ酒とブタ肉とで盛大な酒宴を行って威望を高めることにある。農耕に勤勉であるばかりでなく,作物の発育のそれぞれの時期に応ずる多種多様の呪術儀礼を行って豊作を確保しようとする。そのためか祭日と忌休日が多い。たよりとするのは神霊でなく呪術的操作そしておそらく自己の呪力である。この点,(漠然たる意味での)〈祖霊の心しだい〉といった態度で播種と収穫ぐらいだけに簡単な農耕儀礼を行うアタヤル族とは著しく対照的だといえる。他面に,社交的であるとともに喜怒哀楽を容易に表すアタヤル族に比べ,ブヌン族はむっつり型で黙々と働くというような傾向が目だつ。
ブヌン族の西隣の北ツォウ族にも3段がまえの父系氏族組織が見いだされ,ブヌン族のそれを多少簡略化したような運営方式を思わせるけれども,基本的には大差がないといえようが,部族の首長および同じく部族のいわば本村に所在する男子集会所(兼首級祭屋)を通じておそらく強化された部族の政治的・軍事的かつ宗教呪術的な結束がはるかに目だつ。ブヌン族とある程度まで似かよった生活態度も認められながら,戦士および狩猟者としての資格技量がいっそう重視されるように見受けられる。ブヌン族とは異なって,アワ(および稲)の穀霊さては高峰から訪れるアワ神の観念が儀礼的にも明示されるとともに農耕儀礼全般はかなり簡素であるが,アワ収穫祭と首祭りとにまたがる一連の行事には,その機会に部族の本村といわば諸分村との政治的・軍事的連帯を強調するような行事も結びつく。清朝時代の北ツォウ族は天然痘その他〈平地からの病気〉で著しく減少した人口をもって,西方では漢族,東方ではブヌン族の侵入に対抗しなければならなかった。日本時代になっても人口はむしろ停滞状態で,わずか1700人ばかり(1931)が4部族に分かれていた。
比較的に多数の人口を擁しながら,近隣諸族の圧迫を受けがちだったのは台湾東部平地のアミ(アミス)族である。大きな密集村落をもちながら,村と村との対立反目が随所にみられた。中部アミと南部アミには数十の母系氏族が分散混在するが,その社会的・政治的機能は微弱で,また村々をこえての連帯性にとぼしい。アミ族のうちでも北部および中部の有力ないくつかの村々は,少なくとも17世紀の中ごろから存続していたことが当時のオランダの記録から判明する。しかし,微力な村々は西方山地のアタヤル,ブヌン両族,南方のプユマ族から各個撃破的な打撃をしばしば受け,その結果,東部平原から台湾南端の恒春方面にかけて錯雑した移動混交が行われた。このことについては,他の諸種族の場合に比べ,アミ族への小銃の伝来が著しくおくれたことも考慮されるべきであろう。アミ族の村政をみると,その実権は古老男子たちの手中にあるといってよい。家族レベルでは母系相続・聟入婚・女子家長制で,農業に勤勉であることが聟入りの主要条件であるが,他面において,もともとは軍事的機能をかね備えた男子集会所や,(男子の)年齢階層制度がおそらく男子古老の特権的地位を育成助長したと推測してよいであろう。なお,固有にはアミ族も焼畑農耕民でアワと陸稲を栽培し,特にアワの儀礼的重要性は残存し続けた。ところが19世紀末あたりから水牛犂耕を伴う水田耕作が普及しはじめ,これを背景に彼等の人口が着実に増加し続けたように考えられる。しかし,穀倉の豊かなたくわえを理想とし,必要以上の水牛を所有し頭数を誇りたがる傾向もあって,これは過去の威望経済イデオロギーのなごりかもしれない。
このアミ族と比較した場合,さまざまな点で微妙な対照を示すのはプユマ族である。これはとりわけ,一方ではアミ族でみられるような首尾一貫した母系主義でないこと,他方では首長系統(これも〈純母系帰属〉ではない)と平民系統との階層分化が方向づけられていたことにある。ここでも村落は密集集落であり,村落間の対立傾向も否定しがたい。〈首長〉は一般に複数であるが,そのなかの一人が指導権をもつところと複数首長が並立して政事や祭事を分担するところとがあり,後者の場合は複数の男子集会所がある。プユマ族では男子集会所と男子年齢階層制とが結びついての軍事的編成が強化されていた。とくに有力な村落である卑南社(本来の村名はプユマ)は南部アミ族を制圧して貢租を徴収し,東部パイワン族に対しては婚姻政策による諸首長家の懐柔につとめていたのである。
次にルカイ族,パイワン族では世襲首長制とそれに関連して貴族層と平民層との分化が目だつ。土地は首長家の支配統制下に置かれ,農耕・狩猟に際して配下たちは貢租を納めなければならない。ここでも密集集落であって,村落首長が多いが,若干の村落を兼ね統べる首長もあるし,一村内に複数の首長が並存する例も珍しくない。世育の継承に関し,ルカイ族では長男優先,パイワン族では男女を問わず長子優先で,首長との系譜的距離に応じて貴族内にも格式の上下を生じ,その末端は平民の地位に下がる。村落内婚の傾向が著しいけれども,首長家相互の通婚が村落を越えてしばしば行われるので,このことが村落の封鎖性をかなり緩和する。一般に聟入婚よりも嫁入婚が多いが,血縁系統は双系的にたどられる。
最後にヤミ族は,言語的にも文化の諸特徴でもフィリピン北端のバタン諸島住民と著しく共通する。清朝時代のある時期まで相互の海上交通も行われたらしい。バタンの島々の名称をよく知っておりながら,台湾本島に関する知識は漠然たるものである。海岸に沿うていくつかの密集村落を営み,村政は古老や家長たちの非公式的な衆議によって決せられ,首長というべきものは存在しない。台湾本島の場合とはちがい,ここには首狩り習俗がなく,村落間の争いごとも戦争にまで至らず,せいぜい石合戦の程度であった。村外との通婚もいくらか行われ,嫁入婚しかなかったが,血族関係のたどり方は双系的である。
以上は日本時代の中期あたりに照準をつけての記載である。戦後は中華化,キリスト教化,それに近代化の波を急激にかぶり,もともと互いに伝統文化の差異を多くもつ台湾原住民諸族が,今後それぞれどのような対応を示すものか,これはさらに検討さるべきである。
執筆者:馬淵 東一
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台湾原住民(中国語圏では、「先住民」に「今は存在しない」という意味があるため、「原住民」が用いられる)の総称。第二次世界大戦後、「高砂族(たかさごぞく)」のかわりに用いられ始めた。日常口語での「番仔(ホワナ)」や、日本の一部で使われている「生番(せいばん)」のような差別的色彩をもたない点では、同じく台湾で行政用語の「山胞(シャンパオ)」とともに評価できるが、半数近い原住民は山ではなく平地に居住しているため、「台湾原住諸族」のほうが精確な表現といえよう。
[末成道男]
国民党が平埔(へいほ)族を除く台湾先住民に与えた総称。台湾先住諸民族は清代,熟番(じゅくばん)・生番(せいばん)と分類され,台湾総督府は「番」を「蕃」に改めて使用しつつ,民族学的調査により熟蕃と生蕃とをおのおの十数種族に分類した。1935年,戸口規則の改正で熟蕃を平埔族に,生蕃を高砂(たかさご)族と改めた。45年台湾が中華民国に復帰すると,国民党政権は高砂族を高山族と改称した。80年代以降,台湾原住民権利回復運動が高まり,94年憲法修正で高山族は原住民と改称された。現在は一般に台湾先住民,あるいは台湾原住民と呼んでいる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…海岸線は単調で,良港湾には恵まれない。
[住民]
少数の外国人を除くと先住民の高山族と大陸から移住してきた漢族を中心とする大陸系住民の二大部分からなる。高山族はインドネシア系統あるいは原(プロト)マレー系統の種族であるといわれている。…
※「高山族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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