諏訪藩(読み)すわはん

改訂新版 世界大百科事典 「諏訪藩」の意味・わかりやすい解説

諏訪藩 (すわはん)

信濃国(長野県)諏訪高島城に藩庁を置いた譜代小藩。高島藩ともいう。1601年(慶長6),転封されていた上野国から諏訪の地に帰った諏訪頼水を初代藩主とし,11代藩主忠礼の代に廃藩置県となった。諏訪郡2万7000石を領知としたが,18年(元和4)筑摩郡で5000石を加増され,3万2000石の藩として幕末に至った。新田開発を進め,84年(貞享1)には内高4万3800石となった。延宝年間(1673-81)には地方召上令によって俸禄制をしき藩体制を確立した。1781年(天明1)の千野兵庫と諏訪大助両家老を先頭に藩主の家督をめぐって争った〈二の丸騒動〉が起こったが,幕府裁許をうけて終わった。幕末期,藩主忠誠は若年寄寺社奉行から老中職となり幕閣として活躍したが,長州征討論に異議を唱えて1865年(慶応1)辞職した。

 領地は筑摩郡を別とすれば,八ヶ岳南麓の山村地帯,西麓の山裏水田地帯,諏訪湖東部の平野地帯,同じく南西部の畑作地帯とに分けられる。そして諏訪湖を中心とした平野・畑作地帯には,18世紀末ごろから諏訪平,小倉織の生産が小倉師の賃機による問屋制家内工業として展開しはじめた。それとともに養蚕製糸業も展開しはじめたが,安政開港により一挙に養蚕・製糸業が商品生産の中心となった。とくに岡谷地区は製糸業の中心地となり,その中から,林源治郎家のようなマニュファクチュア的経営まで出現するに至った。しかし,諏訪藩は,藩政改革にもかかわらず,これら商品生産の利益を藩財政の中にくみとることができなかった。領内甲州道中が横に,中山道が縦に貫通していて,それが商品の流通路となっている経済構造をもっていたことが,その大きな理由であると考えられる。なお諏訪氏はもともと領民尊崇をあつめる諏訪大社の大祝(おおほうり)の家であって,そのことが諏訪藩と藩主のあり方とを特徴づけている面も少なくない。
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百科事典マイペディア 「諏訪藩」の意味・わかりやすい解説

諏訪藩【すわはん】

信濃国諏訪郡高島(たかしま)城(現長野県諏訪市)に藩庁を置き,高島藩ともいう。諏訪大社の大祝で代々諏訪地方を領した諏訪氏は1590年頼忠・頼水父子のとき徳川家康とともに関東に移る。その跡に豊臣秀吉の部将日根野高吉が入り,高島城を築城。日根野氏は1601年下野国壬生(みぶ)に移封,替わって諏訪頼水が再び諏訪に封じられ,高島城を居城とする。以後諏訪氏が継ぎ,10代忠礼(ただあや)のとき廃藩置県を迎える。9代忠誠(ただまさ)は老中として幕閣に列した。領知は初め諏訪郡2万7000石,頼水の代に筑摩郡で5000石の加増があり3万2000石,その後分知があり,1657年以降は3万石。新田開発を推し進め,領内に多くの新田村が成立。高島城下東隣の上諏訪宿は甲州道中,下諏訪宿は中山道の宿場町として繁栄。藩校は1765年創立の長善(ちょうぜん)館。

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藩名・旧国名がわかる事典 「諏訪藩」の解説

すわはん【諏訪藩】

江戸時代信濃(しなの)国諏訪郡高島(現、長野県諏訪市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は長善館。1601年(慶長(けいちょう)6)、上野(こうずけ)国に移されていた諏訪頼水(よりみず)が諏訪氏の旧領諏訪に戻り、2万7000石で立藩した。諏訪氏はもともと諏訪大社の大祝(おおはふり)の家であった。以後、明治維新まで諏訪氏10代が続いた。2代藩主忠恒(ただつね)は大坂の陣の功績で、18年(元和(げんな)4)に5000石加増され3万2000石となったが、3代藩主忠晴(ただはる)のとき、2人の弟にそれぞれ1000石を分与、3万石となった。18世紀末ごろから養蚕・製糸業が活発となり、1859年(安政6)に横浜港が開港すると、とくに岡谷地区の養蚕・製糸業が商品生産の中心になった。71年(明治4)の廃藩置県で高島県となり、その後、筑摩(ちくま)県を経て76年長野県に編入された。◇高島藩ともいう。

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デジタル大辞泉プラス 「諏訪藩」の解説

諏訪藩

信濃国、高島(現:長野県諏訪市)を本拠地とした譜代藩。初代藩主は諏訪頼水。以後代々諏訪氏が統治し、11代忠礼のときに廃藩置県を迎えた。上諏訪・下諏訪といった宿場町を有し、18世紀末からは養蚕・製糸業が栄えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「諏訪藩」の意味・わかりやすい解説

諏訪藩
すわはん

高島藩

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「諏訪藩」の意味・わかりやすい解説

諏訪藩
すわはん

高島藩」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の諏訪藩の言及

【藩政改革】より


[前期――給人地方支配の廃止と俸禄制への転換]
 領知規模1万石以上を大名と呼び,その大名の所領高合計が全体の4分の3に達しているなかで,徹底しきれないいくつかの藩があったにせよ,大名家臣団が地方(じかた)支配(地方知行)から俸禄制(蔵米(くらまい)知行)に変わったことは,藩政にとっても大きな変化であったといえよう。信濃国の譜代小藩諏訪藩におけるこの政策の実施過程に出された〈郷中申渡〉8ヵ条は,第3代藩主諏訪忠晴が1675年(延宝3)閏4月に出したもので,その冒頭の条に,藩が給所百姓を大名直轄の百姓に切り替えてゆく理由を明記している。すなわち,給人(きゆうにん)による百姓の恣意的支配の抑止であり,小農維持を基調におく藩政への転換を宣明したものであった。…

※「諏訪藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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