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高橋健三 たかはしけんぞう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高橋健三
たかはしけんぞう

[生]安政2(1855).9. 江戸
[没]1898.7.22. 小田原
官報』の礎を据え,印刷技術の導入に功があり,言論人,政治家としても活躍した。大学南校で法律を専攻したが中退。 1882年に官報局に奉職,86年その局長となり,90年パリに出張してマリノニ輪転機を『官報』増刷用に購入した (輪転機という訳語も高橋がつけた) 。官報局で部下であった陸羯南 (くがかつなん) の日本主義に共鳴し,92年退官して『大阪朝日新聞』の客員となり,対外強硬論の筆陣を張った。 96年松方・大隈内閣の内閣書記官長となったが,主宰する雑誌『二十六世紀』掲載の福本日南 (執筆と推定される) の論文に不敬問題が起りその責めを負って辞職した。 (→二十六世紀事件 )

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朝日日本歴史人物事典の解説

高橋健三

没年:明治38.4.5(1905)
生年:文政11.12.15(1829.1.20)
信濃川大河津分水工事の先駆者。越後蒲原郡保明新田(新潟県田上町)の庄屋。一帯は信濃川の洪水に悩まされていた。健三は同志と計り水害対策を練り,江戸中期以来叫ばれていた大河津分水の実現に奔走,大河津(西蒲原郡分水町)~須走(三島郡寺泊町)間10kmの水路を開いて信濃川の水を日本海へ放流する計画を立てた。明治新政府はこれを採用し朝廷御下賜金や水害地分担金などをもとに,明治3(1870)年,官営事業として着工。健三は用弁掛に任命され営繕,人足徴用などに尽力したが,経費不足,土砂崩れ,さらには分水反対の一揆などで同8年工事は中止となる。しかし分水工事の要望は高まり,同42年再開され昭和2(1927)年に完成した。<参考文献>『南蒲原郡先賢伝』,『新潟県百年史』下

(中村辛一)

高橋健三

没年:明治31.7.22(1898)
生年:安政2.9(1855)
明治期のジャーナリスト,官僚。父は尾張藩(愛知県)藩士。号は自恃居士。明治3(1870)年に大学南校に入り,11年に退学。駅逓局,内務などの各省役人を経て,15年に文部省に入り,16年に官報報告係となる。『官報』の発刊にかかわり,23年に官報局長に就任。25年に退官するまで,かつての官報局の部下であった陸羯南が創刊した『日本』を支援した。26年に『大阪朝日新聞』の客員となり,日本主義の立場から政府批判を展開。自ら創刊した雑誌『二十六世紀』が29年に土方宮内大臣を批判した記事「宮内大臣」で発行禁止処分を受けたのち,松方・大隈内閣で内閣書記官長に就任し,新聞紙条例の発行禁止条項の緩和に努めた。

(山本武利)

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世界大百科事典 第2版の解説

たかはしけんぞう【高橋健三】

1855‐98(安政2‐明治31)
明治期の異色の官僚,新聞人。江戸に生まれる。大学南校,開成校で学んだが中途で退学。1879年官界に入り,駅逓局,文部権少書記官を経て太政官に新設された文書局官報報告主任となり,《官報》の創刊(1883)に尽力した。85年内閣制度の発足と同時に,内閣官報局次長,89年官報局長に就任した。翌90年渡仏,国会開設に備え議事録印刷用にマリノニ輪転印刷機を初めて購入した。他方,高橋は明治10年代後半に始まった政府の条約改正計画や欧化政策に批判的で,意見を同じくする杉浦重剛らの乾坤(けんこん)社や陸羯南(くがかつなん)らの政教社に接近,陸羯南の新聞《日本》の創刊にも協力している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高橋健三
たかはしけんぞう
(1855―1898)

明治の新聞記者。号は自恃(じじ)居士。安政(あんせい)2年9月江戸に生まれる。大学南校に法律を学んだが中退。『英国政典』などの翻訳に従事したのち、駅逓(えきてい)局に出仕。さらに官報局に転じ、1889年(明治22)官報局長となる。このときの部下には、陸羯南(くがかつなん)、長谷川辰之助(二葉亭四迷(ふたばていしめい))などがいた。日本で初めてマリノニ式輪転機を輸入するなど『官報』の改良に尽力した。また岡倉天心とともに美術雑誌『国華(こっか)』を発行するなど国粋主義者としても知られ、条約改正反対運動では、政教社や『日本』紙と提携し、活動した。1893年大阪朝日新聞社に入社、事実上の主筆として社説を執筆。同時に雑誌『二十六世紀』の編集にもあたった。1896年松方正義(まさよし)内閣の書記官長に就任。しかし、『二十六世紀』在任中の筆禍事件などもあり、1897年辞職。明治31年7月22日病没した。[有山輝雄]

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世界大百科事典内の高橋健三の言及

【国華】より

…美術雑誌。1889年(明治22)10月,高橋健三,岡倉天心らによって創刊された。国運隆盛期にあって欧化主義の反省から日本美術の究明と紹介をめざす美術研究誌として,また高度の木版印刷による多色図版を採用した名品鑑賞の雑誌として出発したが,次第に古美術研究の専門誌としての性格を強めた。…

※「高橋健三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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