高橋町
たかはしちよう
下京区東洞院通仏光寺下ル
南北に通る東洞院通(旧東洞院大路)を挟む両側町。町の北側は仏光寺通(旧五条坊門小路)、南側は高辻通(旧高辻小路)にも面する。
平安京の条坊では町の西側が左京五条三坊三保一四町東、東側は同四坊二保三町の西にあたる。平安時代中期以降は高辻東洞院大路北の地。
「祇園社記」には、当町内の東南部にあたる「高辻東洞院東頬、高辻以北、口肆丈奥弐拾丈」の地の売券が豊富に残されている。その最も早いものが次にあげる暦応二年(一三三九)のものである。
<資料は省略されています>
これによれば、この地はもともとは藤原藤久の地であったが、必要があって源氏女に売却。藤久自身、家の相伝文書を紛失してしまい改めて紛失状を立て、また、類地を除いた新券文を立てたのである。更にこの地は観応元年(一三五〇)八月七日に、源氏女より「みなもとのあこ女」に譲渡されている。
高橋町
たかはしまち
[現在地名]熊本市高橋町
坪井川と井芹川の合流点より両岸下流約一キロにわたり、北は高橋村、南は上代村・大友村に接する。「国誌」に「高橋村ノ内」とあり、「新一丁目札ノ辻ヨリ、此札辻迄一里也、上町・中町・下町・三間町等ノ町筋アリ」とし、「高札場 十一枚立」「高橋町奉行宅地 町奉行及ビ手付町廻両人勤衛ス」とある。細川氏の入国以来五ヵ町の一つとされ、寛永一〇年(一六三三)以来地子は免除され(制度考)、熊本城下の外港として繁栄した。行政面では町局の管轄下におかれ、「職料二百石高平士」を町奉行として配した(同書)。
高橋町
たかはしちよう
[現在地名]八幡市八幡土井
土橋町のほぼ南に位置する。放生川と常盤道の間にある南北の道沿いにあって北の全昌寺橋筋から南の高橋筋までの東片側、および全昌寺橋筋の常盤町以西の南片側の町並。慶長五年指出帳(「石清水八幡宮史」所引)では、地子負担の家数一五。
町名となった高橋(現廃橋)は放生川の全昌寺橋と安居橋とのほぼ中間に架かり、「山州名跡志」は反橋であったと記す。
高橋町
たかはしちよう
[現在地名]大垣市高橋町・伝馬町
大垣城下の東端に位置する士屋敷地域。北は伝馬町。もと高橋村のうちで、寛永城下絵図に足軽町通とある。のち高橋足軽町と高橋同心町に分離し(新修大垣市史)、享保城下絵図では東の五分の四に足軽町、西の五分の一に同心町と記され、町の東に射場がある。元禄期(一六八八―一七〇四)の家数は高橋足軽町一三七・高橋同心町二六、宝暦三年(一七五三)の家数は高橋足軽町一三三・高橋同心町二七(新修大垣市史)。
高橋町
たかはしちよう
[現在地名]岡山市天瀬南町・清輝本町
外堀の南方、旭川と西川の間に位置する郭外商業地域の町。東は藤野町、南は道を隔て山科町、西は古川筋の細堀を隔て小泉町、北は児島町。寛永城下絵図には町名の記載はなく、慶安城下絵図では「意三町」、延宝二年(一六七四)御触留(国富文書)では「為三町」、同四年に高橋町と改名された(「諸用留」同文書)。「吉備温故秘録」に当町はいたって小さな町で、南北表口二六間とある。
高橋町
たかはしまち
[現在地名]笠間市笠間
城下の中央に位置し、大町境の木戸から荒町境の木戸まで東西二町一二間(「里数改帳」茨城県歴史館蔵)。道の両側に店舗が並ぶ商人町で、文禄三年(一五九四)大町とともに石井村の住民を移して作られた。町名は荒町境にある笠間麓城の堀に架けられた橋にちなむと伝える。
宝永二年(一七〇五)の笠間町町方軒別改帳(笠間稲荷神社蔵)によれば、屋敷数五五(二軒口一、一軒半口一、一軒口一四、半軒口三八、寺屋敷一)・人数三一八、馬一八。職業別には地作一四、日雇四、家中奉公人四、酒売三、穀売六、大工三、油屋二、茶売二、豆腐屋・研屋・萱手・たばこ屋・あめ屋・舞々大夫・果物屋・仕立屋・菓子売・桶屋・提灯番・鳴子番・馬喰・鍬柄師各一で、他に名主二、組頭一であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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