1798年(寛政10)より1843年(天保14)まで施行された暦法。西洋の学術の優れていることを知る徳川吉宗は,当時用いられていた貞享暦を廃し西洋天文学を取り入れた新暦法を夢みていたが果たさず没した。没後の1755年(宝暦5)に採用された宝暦暦は,貞享暦の定数を少し変えただけの暦法で,施行後まもなくから幕府は次の改暦を考えねばならなかった。やがて大坂の麻田一門の名声が高くなると,幕府は95年麻田門下の俊秀高橋至時を天文方に登用し,同門の間(はざま)重富に協力させて改暦に当たらせた。至時は西洋天文学の漢訳本である《暦象考成後編》を参酌し,97年に早くも新暦案を完成,《暦法新書》8巻とし,土御門泰栄に献じた。泰栄はこれを上奏し,翌年より実施された。吉宗の遺志はその死後50年にして果たされたと至時の次男渋川景佑は《寛政暦書》の序文で述べている。
執筆者:内田 正男
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日本の暦法の一つ。江戸時代、1797年(寛政9)に編成されたもので、この暦法によって編まれた暦書もこの名でよぶ。前の宝暦(ほうれき)暦にかえて1798年より1842年(天保13)の天保(てんぽう)暦制定まで行われた。幕命により、高橋至時(よしとき)、山路徳風、吉田秀升(ひでのり)、奥村邦俊(くにとし)、間重富(はざましげとみ)らが作業に参画した。内容的には、日月に関しては中国の『暦象考成(れきしょうこうせい)』後編によってケプラーの楕円(だえん)運動説を採用し、麻田剛立(ごうりゅう)の消長法を取り入れた。間接的ではあるが西洋天文学の成果を取り入れた点で画期的な暦法である。しかし土星、木星、火星、金星、水星の5惑星に関しては周転円説であった。
[渡辺敏夫]
江戸時代の暦法。1798年(寛政10)から1843年(天保14)まで46年間用いられた。宝暦暦(ほうりゃくれき)が不備なため,幕府は西洋流の暦法をとりいれて改暦を試みた。天文方に適任者がなく,1795年に大坂で高名な麻田剛立(ごうりゅう)の弟子高橋至時(よしとき)を天文方に登用して,同門の間(はざま)重富とともに改暦の準備にあたらせた。2人は先任の天文方と協力して,97年に京都と江戸で太陽や月の実測を行い,西洋天文学の中国語訳である「暦象考成後編」により寛政暦を完成した。これは日月の運行について楕円軌道説をとり,また麻田剛立の消長法を採用し暦法数の値を修正している。
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…翌8年改暦御用をおおせつけられ先任天文方の吉田秀升,山路徳風とともに上京し,1年あまりで新暦法を完成した。この暦法は至時と,至時とともに出府した間重富の2人の学力によってまとめられたもので,同10年より施行され寛政暦と呼ばれた。寛政暦の完成後は日月食の計算法,五星法(惑星の運動論)と里差(経度差)の研究に意を用い,里差については伊能忠敬の全国測量の発足,支援に力をいたした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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