高田庄(読み)たかたのしよう

日本歴史地名大系 「高田庄」の解説

高田庄
たかたのしよう

大野川下流左岸地域一帯、鶴崎つるさき地区を中心とし一部は同川右岸に及ぶ。「吾妻鏡」治承五年(一一八一)二月二九日条に、緒方惟栄などの反平家に同意した人物の一人としてみえる高田次郎隆澄の本貫地。文治年中(一一八五―九〇)に作成利用された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によると、宇佐宮仮殿造営のため豊後国一国平均役として庄園公領および分担範囲を記したなかに「三間渡樋二支高田庄」などとみえる。建久四年(一一九三)二月一五日宇佐宮造営にかかわる豊後国一国平均役として、当庄二〇〇町余に南楼作料粮米准絹六二六疋四丈・米三八石が課せられている(「豊後国留守所下文案」宮内庁書陵部八幡宮関係文書)。承久三年(一二二一)豊後国留守所は宇佐宮仮殿府行事官宿房入物について、当庄に毎月四日間、九ヵ月で三六日の勤仕を命じているが、入物として畳一帖・莚二枚など、日別雑事として宿直二人・塩二升などがみえる(同年一〇月日「豊後国留守所下文案」同文書)。建長七年(一二五五)には南楼門の造営にあたって材木の調進が豊後国行事所から命じられた(同年九月一日「造宇佐宮豊後国行事所下文案」同文書)。材木は柱や梁など三二種類にも及び、規格もそれぞれ規定されており、一〇月中に笠和かさわ郷内の勢家せいけ津に集め、国行事所に引渡すことになっていた。

豊後国弘安田代注進状には高田庄二〇〇町とあり、本庄一八〇町として領家は摂関家ゆかりの城興じようこう(現京都市南区)、地頭は三浦入道殿とみえる。残りのまき村二〇町分は加納と思われるが、領家は同じで、地頭は御家人牧三郎惟行法師とある。当庄が城興寺領となった時期や経緯は不明であるが、同寺が後鳥羽天皇の後院領を経て(「玉葉」建久三年九月二日条)、京都青蓮しようれん院の知行となっているので(華頂要略)、同様に推移したと考えられる。当庄地頭職は宝治合戦の褒賞として三浦一族中唯一荷担しなかった盛運・盛時の一流に与えられ、この当時の三浦介は盛時の子頼時と考えられる。

〔大隅国正八幡宮大神宝用途をめぐる相論〕

大隅国しよう八幡宮(現鹿児島県隼人町)大神宝用途は、九州内の薩摩・大隅・日向を除く六国二島の負担であったが、鎌倉中期には国衙が納入を催促しても地頭が応じない状況が起こった。文永二年(一二六五)一二月二六日、幕府は大友頼泰と少弐資頼に正八幡宮遷宮並大神宝用途について沙汰を命じた(「関東御教書案」宮内庁書陵部八幡宮関係文書、以下同文書は集合文書名を省略)


高田庄
たかだのしよう

三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)

<資料は省略されています>

とみえる。これによると、高田庄は興福寺大乗院領荘園であり、同寺末寺の薬師寺別院の伝教でんぎよう院が預所と考えられる。面積は三〇町余で、うち一〇町は名田で五名からなっていた。一名宛二町の完全な均等名荘園と考えられる。名田からの分米は各給主に配分されているが、一二石の給主は伝教院であろう。楢原は楢原氏で、現御所ごせ市大字楢原ならばらの在地武士と考えられ、大乗院方国民であり(大乗院雑事記)、坊人給分(三箇院家抄)には「楢原分 高田御米内、十三郷、中井殿庄御米内」とみえる。


高田庄
たかたのしよう

円山まるやま川左岸の高田付近にあった穀倉院領庄園。初見は康治二年(一一四三)八月一九日付の太政官牒案(安楽寿院古文書)で、安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)の末寺但馬国養父やぶ郡内水谷みずたに神宮寺(現養父町)の四至書のうちに「南限大塚并石和郷高田庄堺」と記される。当庄は「和名抄」に記す石禾いさわ郷の一部に含まれていたのであろう。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には、養父郡に「高田庄 三町三反百四十分」とみえ、「穀倉院領」「領家更長者」「地頭荻野三郎頼定」の注記があり、庄田の内訳は仏神田六反半四〇歩、領家預所佃三反、地頭給六反、公文給三反、定田一町四反二八〇歩である。


高田庄
たかたのしよう

古代の赤穂郡高田郷(和名抄)の郷名を継承したとみられる庄園。千種ちくさ川左岸に合流する高田川流域、現上郡町神明寺じみようじ宇治山うじやま宿しゆくを中心とする一帯に比定される。古代―中世の山陽道が通り、交通・軍事上の要衝地であったと考えられ、当庄を見下ろす北方山上には高田城が築かれていた。元弘三年(一三三三)二月、赤松円心方に属した城頼連は鎌倉幕府打倒の挙兵の際、まず同城を攻略したという(同年五月日「城頼連軍忠状」毛利家文書)


高田庄
たかだのしよう

錦部にしごり郡にあった観心かんしん寺領庄園。元慶七年(八八三)九月一五日付観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)によれば、錦部郡二所のうちの一所としてあげられ、郡内に散在し、しかも六次にわたって庄田などの免許施入などがなされている。第一次は貞観一一年(八六九)六月九日付民部省符により観心寺に施入された、一条川原里・一〇条社里・久保田里・宮道里・佐田里・里外東辺に散在する五町四反(坪付合計は六町)、第二次は同九年三月一七日国判を受けた、東限峰(在丑寅角台沙弥丸地)・南限谷并公田・西限公田并故伴雄堅魚宿禰栗栖・北限河の野地三〇町、第三次は台沙弥丸らが七世父母仏道をなさんがため承和一二年(八四五)正月一〇日施入した、東限大井堰小野・南限古溝・西限和気参議(真綱)家地・北限河の地一町、第四次は同八年七月二日郡判券をうけた高向たこう村にある家地七反・林五反・栗林三反、四至のうち北限には「道并錦部寺栗林」とあり、錦部寺の存在が注目される。


高田庄
たかだのしよう

「多武峯略記」の「炎上三箇度」のうちに

<資料は省略されています>

とある。これによると、済厳が多武峯寺平等びようどう院経蔵を建立(一一世紀後半か)した関係があって、その後彼の養母が高田庄近辺の私領を同経蔵に寄進したことがうかがえるが、この高田庄の所在は大字高田たかたに比定されるものと考えられる。


高田庄
たかたのしよう

内住ないじゆ川の中流域、現穂波町高田付近にあった観世音寺(現太宰府市)領庄園。天慶三年(九四〇)三月、蔭孫正六位上源敏は家地一院(在伏見郷高田村)・林一町・治田五町余および阿自井田一町余・浦田五町余を「敏名」として立券している(同月二三日「穂波郡司解案」東大寺成巻文書/平安遺文一)。このうち前者は源敏が笠小門々子から買得したもの(同月七日「笠小門々子治田売券案」同上)、後者は美作真生・利明が「敏名」として立券したものである(同月二三日「美作真生・利明治田売券案」同上)。同年四月源敏は亡姉源珍子の「忌日法事並盆供等料」として「敏名」を観世音寺に施入しており(同年四月五日「源敏施入状案」同上)、同年五月六日の観世音寺牒案(同上)には「高田庄」と記載されている。


高田庄
たかだのしよう

興福寺寺務領であり、同寺の七堂灯油免田であった。欠年の通目代知行地注進(春日神社文書)に、

<資料は省略されています>

とある。通目代は興福寺四目代の一で、高田庄は同目代の知行下にあり、その得分ともなっていたものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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