遼東半島(現,中国遼寧省旅大地区)にあった日本の租借地。関東州の地名は山海関の東を意味し,遼東半島の旧ロシア租借地に日本が名付けたもの。日露戦争に勝利した日本は,1905年9月調印のポーツマス条約でロシアの租借権を継承し,同年12月の日清善後条約で清国政府の承認をえた。ロシアの租借権は,1898年の遼東半島租借に関する露清条約で期限25年と定められていたが,1915年日本の対華二十一ヵ条要求により期限は99年に延長された。日本は関東州を統治するため1906年旅順に関東都督府を設置し,陸軍大将または中将に限られた都督が州の軍事・行政権を掌握した。19年官制改正により関東都督府は廃止され,代わって関東庁と関東軍司令部がそれぞれ独立の機関として新設された。これによって関東州はその警備を関東軍にゆだねるとともに,文官の関東長官の行政的管轄下に置かれ,南満州鉄道会社(満鉄)付属地とならんで日本の南満州支配の基盤となった。とくに南端の大連は満鉄の終着点であり,かつ満州最大の呑吐港を擁して急速に発展し,1915年市制が施行され,日本の官衙,銀行,会社が多く進出した。満州事変(1931)と満州国の設立後,権限を強化した関東軍の要求にもとづき32年8月関東軍司令官が関東長官と駐満特命全権大使を兼ねることになり,さらに34年12月の在満機構改革により従来の関東庁に代わって在満日本大使館内に関東局が置かれ,全権大使(関東軍司令官)が関東州と満鉄付属地を管理し,関東軍憲兵司令官が関東局警務部長を兼ね,関東州の警察も関東軍の完全な統制下に置かれた。第2次世界大戦後,ソ連に占領され,その管理下に置かれたが,50年2月に調印された中ソ友好同盟相互援助条約により中国に返還された。
執筆者:鈴木 隆史
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中国東北、遼東(りょうとう)半島最南端で、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)・金州(きんしゅう)などの都市を含む地域。1905年(明治38)9月のポーツマス条約により、日本がロシアから引き継いだ租借地で、中国では旅大租借地とよんだ。日清(にっしん)戦争後の下関(しものせき)条約(1895)でいったん日本が領有したが、露・独・仏の三国干渉で清国に有償返還、ロシアが干渉の成果として租借した。しかし日露戦争の勝利により、日本がロシアの租借権を引き継ぎ、以後日本の満州支配の橋頭堡(きょうとうほ)となった。ロシアの租借権は1898年に25年の期限で改定されたものであったが、日本は1915年(大正4)の対華二十一か条要求で、期限を99年延長させた(満期は1997年)。当初の日本の統治機関は、日露戦争中の軍政を引き継ぎ1906年に設置された関東都督府で、軍事的性格が強く、都督には軍隊指揮権をもつ陸軍大・中将が就任した。19年の官制改革で関東都督府は廃され、関東軍と関東庁に分離し、文官の関東長官は、関東州の管轄、南満州鉄道の警護のほか、必要に応じて関東軍司令官に兵力の使用を要請できることになった。しかし関東庁の行政権限と関東軍の権限の境界は錯綜(さくそう)しており、両者の摩擦がしばしばみられ、対満国策不統一の非難を浴びた。
満州事変勃発(ぼっぱつ)(1931)後は関東軍の支配力が強化され、1934年(昭和9)の在満機構改革で、駐満大使兼関東軍司令官が長官となる関東局が置かれ、この指揮下にある関東州庁が行政を担当した。日本の敗戦によりソ連が同地を占領後、50年の中ソ友好同盟相互援助条約の締結により中華人民共和国に返還された。
[粟屋憲太郎]
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遼東半島における日本の租借地。1905年(明治38)の日露講和条約(ポーツマス条約)によりロシアの遼東半島南部の租借権を継承,満州に関する日清条約で清国にこれを承認させ,15年(大正4)対華二十一カ条の要求で租借期限を99年間に延長した。当初は関東総督府をおいたが,1906年旅順に関東都督府を設け,都督は陸軍大将か中将とされた。19年には関東庁と関東軍が分離,関東長官が行政を担当した。その後関東軍の支配力が強化され,34年(昭和9)には関東局が設置されて関東軍司令官である駐満大使が長官を兼ね,その管下に関東州庁がおかれた。第2次大戦の敗戦により一時ソ連に占領されたが,のちに中華人民共和国に返還された。
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…大連港と市街地は5年がかりで建設された。1905年日露戦争に勝った日本が遼東半島を租借,関東州と命名,大連に関東都督府を置き,中国東北部に対する侵略と半植民地的支配の拠点とし,旅順を海軍の要港とした。そして大連港は後背地である中国東北部の農産物の積出港,工業製品の輸入港として港湾施設が整備され,その半植民地的性格は顕著であった。…
…その後1898年3月ロシアが清国から同半島を租借した。1905年日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約,日清条約によりロシアの半島租借権をうけつぎ関東州と命名,15年対華二十一ヵ条要求で租借期限を99年に延長させた。日本は旅順に関東都督府,ついで関東庁を設置して関東州を統治し,南満州鉄道株式会社(満鉄)とともに敗戦まで日本の中国進出のための橋頭堡となった。…
…また瀋陽,遼陽,海城などでは大豆油の油坊が発達し,本渓湖,撫順などの採炭も開始された。 だが19世紀中葉以後,イギリス,ロシア,日本などの列強による利権獲得競争が始まり,ロシア帝国は東支鉄道南満支線(後の南満州鉄道)を敷設し,大連に港湾を建設し,旅順を海軍基地としたが,日露戦争後は日本がこれに代わってすべての利権を取得し,遼東半島の一部を関東州とよび,ここに関東都督府を置き,旅順は海軍の要港とされた。また南満州鉄道(満鉄)沿線の付属地のほか,撫順,本渓湖,烟台の炭鉱を勢力下に収め,日露戦争の際建設した軍用軽便鉄道(現在の瀋丹鉄道)の改修と沿線の鉱山採掘権を清朝に認めさせ,さらに第1次世界大戦中には袁世凱政府を脅迫して二十一ヵ条条約を締結させ,鞍山に製鉄所を建設するなどいっそう多くの利権を獲得した。…
※「関東州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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