高遠城跡(読み)たかとおじようあと

日本歴史地名大系 「高遠城跡」の解説

高遠城跡
たかとおじようあと

[現在地名]高遠町大字東高遠

月蔵がつぞう(一一九二メートル)の西側山麓が西に突き出した台地上にある城跡。南は三峰みぶ川が険阻な高い段丘崖を作り、北から西にかけては藤沢ふじさわ川が深い谷を作って台地を取り巻き三峰川に合流する天険の地で、北は藤沢川の谷、西はこの二つの川の急流を直下に見下ろし、西方かなたにこまヶ岳(二九五六メートル)を遠望する。

藤沢川の谷は諏訪大社上社の背後にあり、「吾妻鏡」によれば文治二年(一一八六)既に諏訪社領であり、その後も諏訪氏の勢力が浸透し、その一族が移り住んで高遠氏を名乗るようになった(神氏系図・諏訪家譜)

守矢満実書留(守矢真幸氏蔵)の文明一四年(一四八二)六月三〇日の条に「伊那保科(貞親)子共連々就緩怠、信州(諏訪継宗)背御意、大祝(諏訪継満)殿・千野入道高遠御越有テ」とあるのが高遠の初見であるが、信州(諏訪継宗)本拠の高遠の位置については不詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「高遠城跡」の解説

たかとおじょうあと【高遠城跡】


長野県伊那市高遠町にある平山城跡。別名、兜山(かぶとやま)城。月誉(つきほめ)山の西丘陵に築かれ、東は月蔵山、北西は藤沢川、南西は三峰(みぶ)川に囲まれた天然の要害となっている。本丸を中心に二の丸や南曲輪(くるわ)、法幢院曲輪、笹曲輪、勘助曲輪などを配し、それぞれが深い空堀で隔てられている。要所には虎口を設け、簡単に本丸に近づけない構造で、外周には高い土塁がめぐらされている。曲輪の外方には一部武家の屋敷割りが遺存しているなど、きわめて戦国的な城郭の構えをとどめている。三の丸には、1860年(万延1)に江戸時代最後の藩主が藩重役の屋敷を改築して学問所とした藩校進徳館も残る。城内に遺存する藩校の例は少なく、1973年(昭和48)に城跡とあわせて国の史跡に指定された。高遠の地はもと諏訪氏一門(藤沢・高遠・保科)の支配下にあり、甲斐守護・武田氏と同盟関係を結んだ諏訪氏当主の諏訪頼重と反目関係にあった高遠頼継(よりつぐ)が、ここを居城としていた。そして、信玄が当主になると信玄は信濃侵攻をめざし、同盟を破棄して諏訪頼重を討った。続いて、諏訪領の半分を支配していた高遠頼継との戦いとなり、1545年(天文14)、武田信玄に攻略されて高遠頼継は降伏。その後、伊那地方の拠点として、山本勘助と秋山信友による大改修が行われ、現在の城郭の原形が造られた。やがて武田氏は、領国を接する織田・徳川氏と激しく対立するようになり、高遠城は重要な軍事拠点となった。1562年(永禄5)、信玄の子で諏訪頼重の娘を母とする勝頼が城主となるが、武田家嫡子の義信が廃嫡される事件が起こり、勝頼は甲斐の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に呼びもどされ、1581年(天正9)、異母弟の仁科盛信を高遠城主とした。翌1582年(天正10)、織田信長は本格的な武田攻めを開始し、3000人の兵で城を守る仁科盛信は、5万の兵を率いた織田信忠の降伏勧告を退けて徹底抗戦したが、盛信は討ち死にし、城は落城した。その後、徳川氏が城に入り、江戸時代には高遠藩の藩庁が置かれ、保科氏・鳥居氏などの居城となり、1691年(元禄4)に内藤氏が摂津富田から入封すると、辰巳櫓(やぐら)や櫓門などを造って整備し、幕末まで城主の地位にあった。現在は太鼓櫓が再建され、大手門などが移築されて、タカトオコヒガンザクラの名所としても知られる高遠城址公園になっている。JR飯田線伊那市駅からJRバス「高遠駅」下車、徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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