高館山(読み)たかだてやま

日本歴史地名大系 「高館山」の解説

高館山
たかだてやま

高館吉田よしだの西約一キロにみえる高館丘陵中にあり、たて山または名取山、那智なち山ともよばれる。古来より当地方の象徴であった。中腹に熊野那智神社、標高約一六〇メートルの頂上部に高館城跡がある。高館城は「仙台領古城書上」によると本丸東西二四間・南北四七間、東の丸東西四四間・南北二四間、西の丸東西一二間・南北五〇間、南の丸東西四六間・南北二四間、北の丸東西三二間・南北一三間とある。伝承では安元年間(一一七五―七七)藤原秀衡が館を築き、文治五年(一一八九)の奥州合戦の際、本吉四郎高衡、志波日誥五郎頼衡が二万五千の兵を率いて同城に籠り鎌倉勢を防いだという(嚢塵埃捨録)。応永二〇年(一四一三)鎌倉府に背いて兵を挙げた新宮盛俊は、高館城に拠った(会津旧事雑考)。永禄年間(一五五八―七〇)伊達家一四代稙宗が名取・刈田かつた・柴田・黒川四郡を手に入れ、一時高館城に移り住み、以来伊達家の拠点となり、家臣福田駿河が城主として置かれ、名取半郡を領したという(仙台領古城書上)


高館山
たかだてやま

[現在地名]岩木町新法師

新法師しんぼうし集落の東南約一・七キロにあり、標高二三三・八メートル。五代ごだい百沢ひやくざわ道から分れた道が蔵王ざおうを通り、当山の西麓を経て現弘前市東目屋ひがしめや地区の国吉くによしに通じる。また新法師へ通じる道、さらに割山わりやまを通り三本柳さんぼんやなぎだけ常盤野ときわのへ通じる道も古くからあった。現在の百沢道より遥かに南寄りの道である。

山上に高館跡があり、安東氏の居館とされる。享徳二年(一四五三)安東義季は大浦おおうら狼倉おいのくら館において南部氏の率いる六千騎余の軍勢の攻撃を受けて自害したという(湊家文書)。また宝徳四年(一四五二)義季の拠った狼倉館が落城した後、その家臣桜庭らは高館において討死したともいう(「故事聞見記」青森県史)


高館山
たかだてやま

益子町の南東部にあり、雨巻あままき山などとともに益子県立自然公園を形成する。標高三〇一・八メートル。明治初期には、西の西明寺さいみようじ坪から登るおもて坂、北西の一の沢いちのさわから登るうら坂、北東きようさかから登る巡礼じゆんれい道、西の大羽おおばから登る七曲ななまがり道があった(地誌取調)。現在は西明寺と大羽からの道が車道として整備され、経ヶ坂からの道は遊歩道となる。山頂に中世益子氏の居城西明寺城跡、南西の山腹に西明寺があり、参道石段両側はシイ大木がみられる。中腹から山頂にかけては無霜地帯で暖地性植物の北限。現在県立芳賀青年の家がある。西明寺城は紀権守正隆により康平年間(一〇五八―六五)に築かれたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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