鬼ヶ城跡
おにがじようあと
[現在地名]若桜町若桜
若桜集落の南方、八東川・国道二九号(旧若桜往来・播州往来)の西にそびえる鶴尾山(約四四六メートル)の中腹から山頂にかけてに所在する中世後期―近世初期の城。中腹部に中世後期の、山頂部に近世初期の遺構がある。同時代の史料には鬼城・鬼ヶ城と記されるが、のち若桜城・若桜鬼ヶ城などともよばれるようになった。
城が築かれた時期は不明だが、若桜郷を本拠とした矢部氏によって築造されたものと推定されている。矢部氏は鎌倉時代初期に十郎暉種が駿河から八東郡に入部したと伝え、貞和二年(一三四六)安井保(現八東町)内の新興寺(現同上)領をめぐって同寺と安井保三分二地頭青木実俊が争った際の史料に、幕府の使者として矢部左衛門尉綸綱の名がみえ(同年閏九月一七日「足利直義下知状案」新興寺文書)、同じ頃千土師郷(現智頭町)にも進出を企てている(智頭町の→千土師郷)。また「太平記」巻三二にも山名時氏・師氏の有力部将として登場しており、同じく同書にみえる小幡(小畑)氏とともに室町時代を通じ八東郡有数の国衆として活躍、一族に矢部北川(北河)氏がいた。長享元年(一四八七)頃、矢部山城守は私部城(現郡家町)の毛利(森)氏と組んで、山名氏一族山名孫次郎(政実)を擁して守護山名豊時に対し反乱を起こした。このときは勝利したが(郡家町の→私部・私部城)、延徳元年(一四八九)一一月山名豊時勢の反撃に遭い、敗れて政実とともに若桜の館で自害している(「蔭涼軒日録」同年一一月二〇日条)。
鬼ヶ城跡
おにがじようあと
[現在地名]日南市東弁分甲・松永
東弁分甲の北東部、松永との境にそびえる鬼ヶ城山(一九六メートル)の頂にある。西方は広渡川を望み、背後には山が続く。「庄内平治記」によると天文一四年(一五四五)伊東義祐は飫肥城攻撃にあたって一月二四日に宮浦水ノ尾に砦を築いた。これに対して飫肥城の豊州島津忠広は二月一二日当城を向陣とし、一族の島津忠隅を立籠らせた。しかし義祐はこれを無視して二月二四日飫肥の町を攻撃し、二六日には新手を加えて益安の高佐砦に陣を取った。
鬼ヶ城跡
おにがじようあと
浮岳と十坊山の中間、十坊山の南に位置する城山自体を鬼ヶ城ともよぶ。草野永平が戦功により源頼朝から文治二年(一一八六)松浦郡鏡神社宮司に補せられ、松浦郡の東郷に所領を与えられて以来の居城といわれる。また「肥前風土記」の松浦郡に「烽捌所」とあるが、十坊山周辺が当時の烽所であったとの説がある。
松浦地方は寛仁三年(一〇一九)の刀伊の来寇のほか、しばしば外敵の侵攻を受けており、それに備えて怡土城(現福岡県)とともに朝鮮式の山城が設けられ、それが城の山であり、中世に城山とよばれ、草野氏が支配するに至って鬼ヶ城となったという。
鬼ヶ城跡
おにがじようあと
[現在地名]本宮町伏拝
三越川と熊野川との合流地の西北にある、標高約一〇〇メートルの独立丘上に築かれた城跡。越後の豪族城長茂の後裔松本氏の居城であるという。「続風土記」によると、長茂は京都東洞院の京都守護平賀朝雅の邸を攻めたが失敗、熊野に逃れ、熊野本宮の神領地に居した。長茂の五世孫範永は元徳元年(一三二九)この地に鬼ヶ城を築き、正慶元年(一三三二)二月には土河屋南の八木尾谷、大居の九鬼、三越に関所を設け、熊野参詣の往来を改めたという。文明九年(一四七七)七月二六日付湯河肥前入道契約状(松本家文書)に「鬼城ゑもんとの」の名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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