明治・大正期の新聞記者。本名赫雄(てるお)。別号は素卿(そけい)、玄兎(げんと)。慶応(けいおう)3年7月4日熊本藩士の家に生まれる。独逸(ドイツ)協会専門学校を中退し、上海(シャンハイ)の日清(にっしん)貿易研究所に入ったが、病を得て帰国。1890年(明治23)『日本』紙の記者となる。1897年大阪朝日新聞社に入社ししだいに頭角を現す。1914年(大正3)編集局長に就任。部下には長谷川如是閑(にょぜかん)、大山郁夫(いくお)らを擁し、民本主義を強力に推進した。とくに寺内正毅(まさたけ)内閣の非立憲性を激しく攻撃した。しかし1918年8月に白虹(はっこう)筆禍事件が発生し、10月編集幹部とともに退社した。翌1919年『大正日日新聞』を創刊したが、朝日、毎日両新聞社の営業妨害などのため経営破綻(はたん)し、わずか8か月で解散した。以後は新聞界を引退。昭和3年3月10日死去。
[有山輝雄]
『伊豆富人稿「鳥居素川」(『三代言論人集 7』所収・1963・時事通信社)』▽『新妻莞著『新聞人・鳥居素川』(1969・朝日新聞社)』
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…また1904年に二葉亭四迷,07年には夏目漱石が入社し,次々と作品を発表した。大正政変に際しては憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を攻撃,18年の米騒動では悪徳業者を批判するとともに寺内正毅内閣の施政を非難したが,《大朝》は〈白虹(はつこう)事件〉の筆禍にあい,鳥居素川編集局長をはじめ長谷川如是閑,大山郁夫らが退社した。この間,1915年には《大朝》が夕刊の発行を開始(《東朝》は1921年),地方版の急速な整備も加わって紙面の充実が進んだ。…
…《大阪朝日新聞》が1918年に引き起こした筆禍事件。当時の《大阪朝日新聞》は,鳥居素川編集局長のもとに長谷川如是閑,大山郁夫らを擁し,いわゆる〈大正デモクラシー〉の最先頭に立つ言論活動を行っていた。とくにシベリア出兵,米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく攻撃していた。…
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