1917年の十月革命でソビエト政府が誕生すると、日本は翌年に派遣軍をウラジオストクに上陸させて軍事介入。バイカル湖西岸イルクーツクまで侵攻したが、支配は鉄道沿線や都市に限られ、抗日勢力パルチザンのゲリラ攻撃に苦しんだ。他国の撤兵後も駐留を続けて批判を受け、22年にシベリアから退いたが、石油や石炭を狙ってサハリン北部に25年まで駐留。約7年間の投入兵力は延べ7万人以上、死者は3千人以上とされながら、実態が広く知られず「忘れられた戦争」とも呼ばれる。
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大正期のロシア革命に対する干渉戦争。1917年(大正6)11月、ロシア十月革命が起こると、同年12月連合国最高軍事会議に革命政権への干渉計画が出され、翌年1月英仏は日米両国にシベリア出兵を要請してきた。
[由井正臣]
英仏の提案に対して日米は積極的反応を示さなかったが、この時期外務省では本野(もとの)一郎外相をはじめ若手官吏、在外公館にシベリア出兵の意見が強く、参謀本部でも上原勇作(うえはらゆうさく)総長、田中義一(ぎいち)次長を中心にシベリア出兵の計画が練られていた。彼らの意図は、連合国の制約を受けることなく北満、シベリア地域を日本の支配圏に収めようとする自主出兵論であった。ところがアメリカは日本に警戒的で、日本主導によるシベリアと中東(中国東北)鉄道の支配にあくまで反対であったため、日米対立を恐れた日本支配層の一部は自主出兵論に反対し、臨時外交調査委員会では原敬(はらたかし)や牧野伸顕(まきののぶあき)がアメリカとの協調出兵論を主張して、自主出兵論は実現できなかった。しかし、現実には1918年1月に居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦2隻を派遣、4月には居留民殺傷事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の革命勢力に軍事的圧力をかけた。
[由井正臣]
1918年5月、シベリア鉄道経由で本国へ送還中のチェコスロバキア軍捕虜の反乱事件が起こると、7月にアメリカもチェコ軍救出を名目に日本に共同出兵を提案してきた。日本政府はただちにこれに応じ、8月2日出兵宣言を発した。連合国の協定では、日本軍1万2000、アメリカ軍7000、英仏連合軍5800であったが、出兵が始まると日本は協定を無視して、独断で7万2000の大軍を派遣し、バイカル湖以東の各地でソビエト革命に干渉した。国内世論は『大阪朝日新聞』『東洋経済新報』をはじめ多くの新聞、雑誌が終始シベリア出兵に反対した。また対外戦争にはつねに熱狂した国民も今回の出兵にはきわめて冷ややかな態度をとった。こうした国内世論を無視して日本軍はホルバート、セミョーノフらの反革命軍を援助し、東部シベリアを日本の勢力範囲にしようと企て、また西部シベリアのオムスクに成立したコルチャーク政権を支持して、それが全露政権に発展することに期待をかけた。19年の1月ごろから、シベリア各地のパルチザン活動は活発になり、同年末にはコルチャーク将軍のオムスク政権は崩壊し、干渉軍の戦意も低下した。他方ソビエト政府は20年初めまでに国内各地の反革命軍の鎮圧に成功し、連合諸国も干渉戦争がむだであることを悟り、派遣軍の引揚げを開始した。アメリカもチェコ軍の引揚げ完了を理由に、20年1月9日撤兵を声明、英仏軍は同年6月までに完全に退去した。この間日本においては、米騒動の衝撃で寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣が総辞職したあと成立した原敬内閣のもとで、19年10月約1万4000の派遣軍削減を内容とする第一次減兵案を決め、ついで12月には派遣軍総数を約2万6000とする第二次減兵案が決定された。しかし、各国の撤兵にもかかわらず、日本は東部シベリアの支配に執着し、朝鮮・満州(中国東北)への革命波及の防止とシベリア居留民の保護を名目に出兵継続を宣言し、沿海州のソビエト軍を武装解除して各都市を占領した。この間20年2月から5月の尼港(にこう)事件で日本軍は手痛い打撃を受けた。この事件が起こると日本はボリシェビキやパルチザンの残虐性を宣伝して国内の反ソ世論をあおり、出兵を継続するために利用した。また参謀本部は政府に圧力をかけてアムール州からの撤兵を中止させた。そのうえ、この事件が解決するまで北樺太(からふと)を保障占領すると声明した。
[由井正臣]
1921年の第44議会で憲政会の加藤高明(たかあき)総裁は、尼港事件に対する政府の責任を追及するとともに、理由のない駐兵はやめてシベリアから撤退すべきであると主張した。また労働者も対露非干渉運動を展開するに至った。同年11月開催のワシントン会議でも列国の圧力があり、日本は22年6月ようやくシベリア撤兵の意志を表明、同年10月シベリア本土からの撤兵を完了した。この間、極東共和国との間で、シベリア撤兵問題を取り上げた大連(だいれん)会議が21年8月から翌年4月まで、また北樺太撤兵問題を中心議題とする長春(ちょうしゅん)会議が22年9月に開かれたがいずれも決裂した。23年以後の日ソ国交回復のための交渉においてようやく北樺太撤兵問題も解決をみたが、北樺太からの撤兵が完了したのは25年5月であった。この間、足掛け8年、日本は戦費約10億円を費やし、死者は3000人を超えるという犠牲を払いながら、なんら得るところがなかったばかりか、ソビエト人民の敵意と列国の不信を買った日本帝国主義の完全な敗北であった。
[由井正臣]
『参謀本部編『大正七年乃至十一年西伯利出兵史』全3巻(1938/復刻版・全6巻・1972・新時代社)』▽『井上清著『日本の軍国主義Ⅱ』(1953・東京大学出版会)』▽『細谷千博著『シベリア出兵の史的研究』(1955・有斐閣)』▽『細谷千博著『ロシア革命と日本』(1972・原書房)』▽『高橋治著『派兵』第1~4部(1973~77・朝日新聞社)』
1917年のロシア革命で成立したソビエト政権を打倒するための干渉戦争。最初シベリアへの共同軍事干渉計画をたてたのはフランス,イギリスで,日米両国軍によるシベリア鉄道の共同占領の必要や,ウラジオストクにある60万tの軍需品をドイツの手に渡さないために,日本軍を主力とする連合軍の兵力派遣を提議した。この提案をうけた日本側でも出兵論議が高まったが,日本政府の態度は連合国の出方を見守るという方針であった。革命直後から寺内正毅内閣は,ロシア革命の圧殺,東部シベリアへの日本の勢力拡大,中国本土への圧力強化を企図しており,とくに陸軍参謀本部では〈居留民の保護〉を名目に,沿海州から北満(中国東北)方面への日本軍派遣を計画していた。政府内の出兵賛成論者は元駐露大使の本野一郎外相で,これに反対したのは外交調査会のメンバーである原敬や牧野伸顕であり,ロシア革命の日本への影響を憂慮する寺内首相や元老山県有朋もアメリカの出方を重視し出兵には慎重であった。18年1月,日英両国は居留民保護のためウラジオストクへ軍艦を派遣した。たまたま同市の石戸商会が襲われ3名の日本人が殺傷される事件が発生(4月4日)すると,500余名の日本陸戦隊員は50名のイギリス陸戦隊員とともに同市警備の任についた。これが事実上のシベリアへの軍事干渉の第一歩である。
ソビエト政府は同年3月にドイツとブレスト・リトフスク条約を結び,第1次世界大戦の局面に大変化が生じた。大戦中オーストリアの支配下にあってロシア軍と戦ったチェコスロバキア軍の多くはロシアに投降し,ロシアではチェコ軍団として対ドイツ戦に使用されていた。革命後もチェコ軍はドイツと戦おうとし,シベリア経由でヨーロッパ戦線へ向かうこととなった。5月ウラル山中のチェリャビンスク駅でドイツ・オーストリア軍の俘虜とチェコ軍団との衝突事件がおこり,これがアメリカその他に,チェコ軍団がシベリア各地で殲滅(せんめつ)されかかっていると誇張して伝えられた。ウィルソン大統領はそれまでの態度を変えて日米共同でシベリアへ派兵する方針を示した。そしてウラジオストクに日米同数の各7000名の陸軍派遣,チェコ軍の救援目的を達成しだい撤兵することを日本に提議した。日本陸軍はアメリカの〈限定出兵〉提案を喜ばず〈自主出兵〉を貫こうとしたが,結局アメリカ提案に同意しながらも自主的行動をとる含みを残した妥協的回答を送った。アメリカは日本の出兵数は1万~1万2000以下であることを念を押した。こうして8月2日,日本は共同出兵の宣言(〈アメリカ合衆国の提議に応じシベリアにいるチェック軍(チェコ軍団)救援のために出兵する〉)を発し,12日に日本軍,19日にはアメリカ軍が,ウラジオストクに上陸を開始する。シベリア出兵は日本,アメリカのほかにイギリス,フランス,イタリアおよびカナダ,中国がそれぞれ小部隊を派遣して連合国による共同行動という形をとった。しかし共同行動はうまく運ばず,日本軍が緊急の救援を求めてもアメリカ軍はこれを傍観する事態も生じ,日本軍が日米間の合意を無視して大兵を派遣(10月中旬までに約7万3000を派兵)したのに対しアメリカはきびしく抗議した。なお日本軍はシベリア各地に存在した多くの反革命政権にてこ入れし,西シベリアのオムスクで生まれたコルチャーク政権は,一時は優勢で連合国も援助したが20年1月崩壊した。
この状況と干渉戦争批判の声に押されイギリス,フランスは干渉中止の方針を明らかにし,ついでアメリカもこれにならい,1920年1月9日出兵打切りの方針を日本に通告した。ところが日本は,居留民の生命財産の安全が保証されず,過激派の勢力が朝鮮・満州に波及するおそれがあるとして,3月2日の閣議で出兵目的の変更と守備地域の縮小とを決めた。この新方針を実行するやさきに発生したのが尼港事件で,これに対する保障占領の名目で日本は7月3日北樺太への出兵を開始した。しかし世界各国,日本国内の出兵反対論も無視できず,また財政的困難でも歴代政府(寺内,原,高橋是清内閣)は苦しみ,加藤友三郎内閣(1922年6月成立)はついに撤兵を決定し,22年10月25日最後の日本軍はシベリアから引き揚げた。なお北樺太の保障占領は続けていたが,25年1月日ソ基本条約の調印後5月に撤兵を完了した。こうして日本のシベリア出兵は前後8年間に戦費約10億円,死者3500名を数え,ソ連や各国からの不信を買い,何ら得るところなしに無惨な失敗に終わった。
執筆者:吉村 道男
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十月革命で成立したソヴィエト政権を打倒するため,シベリアに出兵した干渉戦争。日本はアメリカの提案に応じて,1918年8月,対ソ干渉戦争に従事していたチェコスロヴァキア軍救援を名目として,シベリア出兵を宣言,バイカル湖以東で軍事行動を行った。これによって東部シベリアを勢力範囲化しようとする日本は,しだいにアメリカと対立,ついに連合国は撤兵したが日本だけが駐兵した。日本政府の立場は国内外的に不利になり,22年所期の目的を達成することなく撤兵した。この間日本は中国に働きかけ約1500人を出兵させたが,中国は20年撤兵した。
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革命直後のロシアに対する干渉戦争。はじめに日本軍などの共同軍事干渉を唱えたのは英仏で,1918年(大正7)1月,日英が居留民保護の目的でウラジオストクへ軍艦を派遣した。その後アメリカがチェコ軍救済に限定した日米共同派兵をもちかけた結果,8月12日に日本軍が,19日に米軍がウラジオストクに上陸を開始。アメリカが日米同数の7000人派兵を主張したのに対し,日本は3カ月間に7万3000余人も派兵したため協調は困難となり,20年1月9日アメリカが出兵打切りを通告。日本は居留民保護,革命の波及防止に目的を変更して駐留を継続したが,北樺太以外からは22年10月撤退,25年の日ソ基本条約調印後に北樺太からも撤退した。
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… 以上2回の米騒動は凶作による不況と米価騰貴を原因とし,江戸時代の騒動の系譜をひく。
【1918年の米騒動】
[原因]
1918年の大米騒動を引き起こした米価騰貴は凶作を原因とせず,直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものである。また,その根底には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず,地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある。…
…時を合わせたかのように,英仏軍1万5000が北のアルハンゲリスクに上陸し,反ソ政権を擁立した。そして8月2日と3日には日本とアメリカがチェコ軍団救出の名目でシベリア出兵を宣言した。日本は10月末までに7万5000の兵力をシベリアと北満(現在の中国東北の北部)に展開させた。…
※「シベリア出兵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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