日本大百科全書(ニッポニカ) 「鳩山一郎内閣」の意味・わかりやすい解説
鳩山一郎内閣
はとやまいちろうないかく
造船疑獄など汚職事件によって倒壊した吉田自由党長期政権の後を受けて成立した、鳩山一郎を首班とする内閣で、その使命を憲法改正・再軍備と対ソ・中国交改善に置いた。
[荒 敬]
第一次
(1954.12.10~1955.3.19 昭和29~30)
組閣に際しての各党間の約束で、民主党少数単独の選挙管理内閣として発足したが、吉田自由党内閣にかわって保守党支配の危機を救う役割を果たした。1955年2月の総選挙では、鳩山が吉田とは対照的に政党人であり開放的な性格の持ち主であることから「鳩山ブーム」をよび、民主党は解散前の124議席から185議席に躍進して第一党となった。
[荒 敬]
第二次
(1955.3.19~11.22 昭和30)
選挙で過半数を握れなかったため民主党少数単独内閣として発足。日米交渉では防衛分担金の削減を求めたが、その条件として防衛費の増額と米空軍基地の拡張を強いられた。また6月には日ソ交渉も開始した。11月保守合同による自由民主党が結成されたため総辞職した。
[荒 敬]
第三次
(1955.11.22~1956.12.23 昭和30~31)
自由民主党内閣として発足し国会で絶対多数を占めた。そのため内政面では憲法調査会法、新教育委員会法など反動法案を成立させた。反面、念願の憲法改正は1956年6月の参議院選挙で護憲派が総議席の3分の1を確保したため挫折(ざせつ)した。外交面では10月鳩山首相自身が訪ソして日ソ国交回復を果たし、12月国際連合への加盟を実現した。これを花道に引退を表明し総辞職した。
[荒 敬]
『藤井松一・大江志乃夫著『戦後日本の歴史 上』(1970・青木書店)』▽『辻清明・林茂編『日本内閣史録6』(1981・第一法規出版)』