鶴沢清六(読み)ツルザワ セイロク

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「鶴沢清六」の解説

鶴沢 清六(4代目)
ツルザワ セイロク


職業
義太夫節三味線方(文楽)

専門
人形浄瑠璃,三味線

肩書
重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・三味線)〔昭和30年〕

本名
佐藤 正哉(サトウ マサヤ)

旧名・旧姓
桜井

別名
前名=鶴沢 政二郎,鶴沢 徳太郎(5代目)

生年月日
明治22年 2月7日

出生地
東京市 四谷(東京都 新宿区)

経歴
11歳の頃鵜沢小庄から手ほどきをうけ、明治35年大阪に行き鶴沢友松(のちの鶴沢道八)の内弟子となり、鶴沢政二郎を名乗った。大正元年5代目鶴沢徳太郎を襲名。この頃、2代目竹本津太夫(のち7代目竹本綱太夫)の養子となる。近松座で5代目竹本錣太夫を弾き、3年文楽座へ入座。12年4代目鶴沢清六を襲名し、豊竹古靱太夫(のち豊竹山城少掾)の相三味線となり、「道明寺」「合邦」「尼ケ崎」など、昭和文楽史に残る名演奏を展開した。昭和24年山城少掾とのコンビを解消、退座して東京へ戻る。27年文楽座に復帰し、豊竹松太夫(のち3代目竹本春子太夫)の相三味線となった。30年人間国宝に認定される。一本気な気性と鮮やかな芸は、有吉佐和子小説「一の糸」のモデルとなった。

受賞
日本芸術院賞(第6回)〔昭和24年〕 芸術祭賞〔昭和24年〕

没年月日
昭和35年 5月8日 (1960年)

家族
養父=竹本 綱太夫(7代目 2代目津太夫)

伝記
人の情けの盃を 山川 静夫 著(発行元 淡交社 ’86発行)


鶴沢 清六(3代目)
ツルザワ セイロク


職業
義太夫節三味線方(文楽)

専門
人形浄瑠璃

本名
田中 福太郎

別名
前名=鶴沢 鶴太郎(3代目),鶴沢 叶(3代目)

生年月日
明治1年 9月

出生地
静岡七軒町

経歴
明治17年大阪へ出て、2代目鶴沢鶴太郎に入門。師匠没後の20年3代鶴太郎を襲名。26年3代鶴沢叶を、36年3代目清六を襲名。31年から竹本大隅太夫の相方を、42年からは2代目豊竹古靭太夫の相三味線をつとめた。6代野沢吉兵衛、6代豊沢広助とともに文楽三味線の三幅対の名手といわれた。

没年月日
大正11年 1月19日 (1922年)


鶴沢 清六(2代目)
ツルザワ セイロク


職業
義太夫節三味線方(文楽)

専門
人形浄瑠璃

本名
石井 平治郎

別名
幼名=石井 福造,前名=鶴沢 六三郎,鶴沢 徳太郎(3代目)

生年月日
天保9年

出生地
大坂(大阪府)

経歴
安政3年(1856年)江戸に出て初代鶴沢清六に入門、六三郎を称す。明治3年大阪に帰り、3代目徳太郎を名乗る。13年2代目清六を襲名、14年東京へ出て、“蠣殻町の師匠”と呼ばれる。

没年月日
明治34年 12月21日 (1901年)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鶴沢清六」の意味・わかりやすい解説

鶴沢清六
つるざわせいろく

義太夫(ぎだゆう)節の三味線。

[倉田喜弘]

初世

(?―1878)1828年(文政11)初舞台。竹本大隅太夫(おおすみだゆう)や竹本勢見太夫(せみたゆう)を弾いて研鑽(けんさん)を積んだのち、46年(弘化3)に江戸へ下った。73年(明治6)に大阪へ戻って初世豊竹古靭太夫(とよたけこうつぼだゆう)を弾き、76年に引退。2世(1838―1901)も1881年(明治14)に東京へ行き、蠣殻町(かきがらちょう)の師匠として重んじられた。

[倉田喜弘]

3世

(1868―1922)静岡市の生まれ。1884年(明治17)に大阪へ出て、1903年(明治36)に清六を継ぐ。一世の名手と喧伝(けんでん)され、3世竹本大隅太夫や2世豊竹古靭太夫(後の山城少掾(やましろのしょうじょう))を弾いた。

[倉田喜弘]

4世

(1889―1960)本名佐藤正哉。東京生まれ。初世清六家の養子となり、1923年(大正12)に4世を襲名する。2世古靭太夫の相三味線として、49年(昭和24)に至るまでの26年間、名コンビをうたわれた。一時文楽(ぶんらく)座を退いたが、復帰後の55年には重要無形文化財保持者に認定された。格調の高い芸風で、昭和期を代表する名人であった。

[倉田喜弘]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鶴沢清六」の意味・わかりやすい解説

鶴沢清六(3世)
つるざわせいろく[さんせい]

[生]明治1 (1868). 静岡
[没]1922
義太夫節三味線方。本名田中福太郎。最初は長唄の修業をしたが,上方に出て 1885年 2世鶴沢鶴太郎に入門し,鶴沢福太郎の名で御霊文楽座(→文楽座)に出座。1887年 3世鶴沢鶴太郎,1893年に 3世鶴沢叶を襲名する。1898年から堀江明楽座に移り,病没した 2世豊沢団平に代わって 3世竹本大隅太夫の相三味線となる。1903年に大隅太夫とともに文楽座に復帰し 3世鶴沢清六を襲名するが,1906年に大隅太夫のみ文楽座を退座する。1909年から 2世豊竹古靱太夫(→豊竹山城少掾)の相三味線となり,没するまで指導にあたった。明治期を代表する名人の一人である大隅太夫を通じて団平譲りの彦六座系の手法を学び,文楽座では 6世豊沢広助の薫陶を受け,山城少掾の芸の根幹を形づくった点で,以後の浄瑠璃に与えた影響は大きい。豪快さと繊細さを兼ね備え,「可ならざるはなし」と称賛された。団平以降の明治・大正期を代表する名人の一人である。(→人形浄瑠璃文楽

鶴沢清六(4世)
つるざわせいろく[よんせい]

[生]1889.2.7.
[没]1960.5.8.
義太夫節の三味線方。本名佐藤正哉。1世鶴沢道八,3世鶴沢清六に師事。 1923年4世を襲名。豊竹山城少掾の相三味線を長くつとめた。後進の育成にも尽力,また有吉佐和子の小説『一の糸』のモデルとされる。 55年重要無形文化財保持者に認定。

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改訂新版 世界大百科事典 「鶴沢清六」の意味・わかりやすい解説

鶴沢清六 (つるざわせいろく)

義太夫節の三味線演奏者。(1)初世(1824-78・文政7-明治11) 初名鶴沢徳太郎,1836年(天保7),2世鶴沢清七門下であるのと,本名の万屋清六にちなんで清六と名のる。初世竹本大隅太夫らを弾き,63年(文久3)引退。江戸在住が長かった。(2)2世(1838-1901・天保9-明治34) 初世門下で,鶴沢六三郎から3世徳太郎,そして1880年師名の2世を襲った。初世同様に東京逗留がながかった。(3)3世(1868-1922・明治1-大正11) 本名田中福太郎。静岡出身で,2世鶴沢鶴太郎門下。福太郎,3世鶴太郎,3世叶から3世清六となる。明治・大正期の名人のひとりで,2世豊沢団平亡きあとの3世竹本大隅太夫を弾き,さらに2世古靱太夫(豊竹山城少掾)の相三味線として彼の修業を助けた。(4)4世(1889-1960・明治22-昭和35) 本名佐藤正哉。東京生れ。初名政二郎。鶴沢道八門下だったが5世徳太郎となり,清六をつぐ。2世古靱太夫を弾いていたが1949年絶縁。のち文楽に復帰してからは豊竹松太夫らを弾く。芸術院会員。有吉佐和子の小説《一の糸》のモデル。
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20世紀日本人名事典 「鶴沢清六」の解説

鶴沢 清六(4代目)
ツルザワ セイロク

明治〜昭和期の義太夫節三味線方(文楽)



生年
明治22(1889)年2月7日

没年
昭和35(1960)年5月8日

出生地
東京市四谷

本名
佐藤 正哉

別名
前名=鶴沢 政二郎,鶴沢 徳太郎(5代目)

主な受賞名〔年〕
日本芸術院賞〔昭和25年〕

経歴
11歳の頃鵜沢小庄から手ほどきをうけ、明治35年大阪に行き鶴沢友松の内弟子となり、鶴沢政二郎を名のった。大正元年鶴沢徳太郎を襲名。この頃、2代目竹本津太夫の養子となる。近松座で5代目竹本錣太夫を弾き、3年文楽座へ入座。12年鶴沢清六を襲名し、豊竹古靱太夫(のち豊竹山城少掾)の相三味線となった。昭和24年山城少掾に絶縁を声明した。27年文楽座に復帰し、豊竹松太夫の相三味線となった。30年重要無形文化財保持者に指定された。


鶴沢 清六(3代目)
ツルザワ セイロク

明治・大正期の義太夫節三味線方(文楽)



生年
明治1年9月(1868年)

没年
大正11(1922)年1月19日

出生地
静岡県七軒町

本名
田中 福太郎

別名
前名=鶴沢 鶴太郎(3代目),鶴沢 叶(3代目)

経歴
明治17年大阪へ出て、2代目鶴沢鶴太郎に入門。師匠没後の20年3代鶴太郎を襲名。26年3代鶴沢叶を、36年3代目清六を襲名。31年から竹本大隅大夫の相方を、42年からは2代目豊竹古靭大夫の相三味線を務めた。6代野沢吉兵衛、6代豊沢広助とともに文楽三味線の三幅対の名手といわれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「鶴沢清六」の解説

鶴沢清六(3代)

没年:大正11.1.19(1922)
生年:明治1.9(1868)
明治大正期の文楽三味線の名手。本名田中福太郎。通称塩町の師匠。静岡の蕎麦屋の3男に生まれ,はじめ長唄を習ったが,15歳のときに大阪へ出て,2代目鶴沢鶴太郎に入門,福太郎を名乗り,3代目鶴太郎,3代目叶を経て明治36(1903)年に3代目清六を襲名した。音,間,情の三拍子そろった芸は時代物,世話物ともにすぐれ,6代目野沢吉兵衛,6代目豊沢広助(名庭絃阿弥)と共に大正期文楽座の三味線三幅対と称された。明治42年から死ぬまで2代目豊竹古靭太夫(山城少掾)の相三味線を勤めて育て上げた功績は,文楽史上に特筆されるべきものがある。<参考文献>『義太夫年表/明治篇,大正篇』

(山田庄一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「鶴沢清六」の意味・わかりやすい解説

鶴沢清六【つるざわせいろく】

義太夫節三味線演奏家の芸名。4世まである。初世〔1824?-1878〕は大坂に生まれ,前名鶴沢徳太郎。1836年鶴沢清六と名乗り,立三味線をひいた。明治初年には名人とうたわれた人。3世〔1868-1922〕は本名田中福太郎。静岡の生れ。後年豊竹山城少掾の三味線をひいた。4世〔1889-1960〕は本名佐藤正哉。東京生れ。1955年人間国宝。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鶴沢清六」の解説

鶴沢清六(3代) つるざわ-せいろく

1868-1922 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
明治元年9月生まれ。2代鶴沢鶴太郎の門人。明治36年3代清六を襲名。2代豊竹古靱太夫(こうつぼだゆう)(豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう))の三味線方をつとめた。大正11年1月19日死去。55歳。駿河(するが)(静岡県)出身。旧姓は永田。本名は田中福太郎。初名は鶴沢福太郎。前名は鶴沢鶴太郎(3代),鶴沢叶(かのう)(3代)。

鶴沢清六(4代) つるざわ-せいろく

1889-1960 明治-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
明治22年2月7日生まれ。初代鶴沢道八の内弟子となる。大正12年4代清六を襲名。3代の没後2代豊竹古靱太夫(こうつぼだゆう)(豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう))の三味線方をつとめた。昭和30年人間国宝。昭和35年5月8日死去。71歳。東京出身。本名は佐藤正哉。初名は鶴沢政二郎。前名は鶴沢徳太郎(5代)。

鶴沢清六(初代) つるざわ-せいろく

1824-1878 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
文政7年生まれ。義太夫節三味線方の2代鶴沢清七の門人。天保(てんぽう)7年鶴沢清六と名のり,初代竹本大隅太夫(おおすみだゆう)の三味線方をつとめ名声をえた。明治11年5月24日死去。55歳。大坂出身。本名は万屋清六。前名は鶴沢徳太郎(初代)。

鶴沢清六(2代) つるざわ-せいろく

1838-1901 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天保(てんぽう)9年生まれ。初代鶴沢清六の門人。明治13年2代清六を襲名した。明治34年12月21日死去。64歳。大坂出身。本名は石井平治郎。初名は鶴沢六三郎。前名は鶴沢徳太郎(2代)。

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367日誕生日大事典 「鶴沢清六」の解説

鶴沢 清六(4代目) (つるざわ せいろく)

生年月日:1889年2月7日
明治時代-昭和時代の浄瑠璃三味線方
1960年没

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