王夫之(読み)オウフウシ(その他表記)Wáng Fū zhī

デジタル大辞泉 「王夫之」の意味・読み・例文・類語

おう‐ふうし〔ワウ‐〕【王夫之】

[1619~1692]中国、明末・清初の思想家衡陽湖南省)の人。あざな而農じのう。号は薑斎きょうさい船山先生と称された。清軍の南下に抵抗したが、のちに隠退して学問著述専心、各方面にわたる研究を残した。その強い民族思想や、独自の気の思想は、後世に大きな影響を及ぼした。著「周易外伝」「張子正蒙注」など。

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精選版 日本国語大辞典 「王夫之」の意味・読み・例文・類語

おう‐ふうしワウ‥【王夫之】

  1. ( 「おうふし」とも ) 中国、明代末期から清代初期の学者。字(あざな)は而農(じのう)。号は薑斎(きょうさい)王船山。通称、船山先生。湖南衡陽の人。華夷弁別の思想を強調して、清代末期の革命思想に大きな影響を与えたといわれる。「読通鑑論」および「宋論」は異色の史論書。(一六一九‐九二

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改訂新版 世界大百科事典 「王夫之」の意味・わかりやすい解説

王夫之 (おうふし)
Wáng Fū zhī
生没年:1619-92

中国,明末から清初の思想家。湖南省衡陽県の人。字は而農(じのう),号は薑斎(きようさい)。晩年,衡陽の石船山に隠棲したので,王船山の名でも知られる。明の崇禎15年(1642)の挙人。清軍の侵入により南京が陥れられ,彼の郷里も占領されると,衡山で挙兵して敗れ,いったん肇慶ちようけい)に逃れた明王室の桂王の行在におもむいた。しかし廷臣内紛に絶望し,1651年(永暦5),家族とともに郷里に帰り,以後はもっぱら学問と著述にふけった。著述の有名なものは,《周易外伝》《尚書引義》《読四書大全説》《張子正蒙注》《思問録内外篇》《読通鑑論》など,ひろく経,史,文の学問にわたるが,彼の存命中にはほとんど世に知られずにおわった。その死後,約170年,同郷の曾国藩・曾国荃(そうこくせん)兄弟により《船山遺書》288巻として編集刊行され,はじめて彼の思想が紹介されるようになった。

 その政治論は,身をもって体験した明王朝滅亡の原因を思索するなかで築かれ,政治は,民を主体として天下の〈公〉の理念にもとづいて行われるべきであって,けっして一姓の君主の私すべきものではないと主張し,歴史論では,唐代の柳宗元の〈勢〉の観点を発展させて,〈勢〉と〈理〉とを結合させた進歩史観の立場をとっている。哲学面では,〈およそ虚空はみな気である〉〈理は気の中にある〉といっているように,北宋時代の張載を継承した気一元論であり,〈理は気に先立つ〉とか〈心外に物無し〉といった朱子学・王学(陽明学)に対して批判的立場をとっている。したがって人性についても,〈聖人にも欲があり,その欲こそ天の理である〉という人欲肯定論を説いて,天理と人欲を対立させる立場(朱子学)を否定した。現代中国になってからは,唯物論者として高く評価されて,遺著の残巻もつぎつぎに発見され,刊行されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「王夫之」の意味・わかりやすい解説

王夫之
おうふうし
(1619―1692)

中国、明(みん)末清(しん)初の三大思想家の一人。湖南省衡州(こうしゅう)(衡陽)の人。字(あざな)は而農(じのう)、号は薑斎(きょうさい)、一壺道人(いっこどうじん)。船山(せんざん)先生と慕われた。26歳で明の滅亡にあい、以後の半世紀を、異民族である満洲族の中国支配に屈服せず、湖南省の山中で中華の道の闡明(せんめい)と自民族回復の方途(みち)の探究に専念した。彼は北宋(ほくそう)の学者張横渠(ちょうおうきょ)(載)の思想に深い影響を受けたが(代表作『張子正蒙注』)、彼自身の40年にわたる峻烈(しゅんれつ)な山中での学問的実践によって、あくまでも生き抜いて中華の道を絶やさない能動的な「生」と「動」の哲学と、異民族支配や異端(老荘や仏教)を峻拒するナショナルで党派性をもった思想を築き上げた。彼の膨大な全集は清末に同郷の曽国藩(そうこくはん)兄弟によって刊行され、とくに、若き日の論である実学を重んじた「道器論」(『周易外伝(しゅうえきがいでん)』)や愛国的中国論『黄書』(38歳の作)は、清末の譚嗣同(たんしどう)や愛国人士らに愛読され、多大な影響を与えた。

[小川晴久 2016年2月17日]

『高田淳編・訳『王船山詩文集』(平凡社・東洋文庫)』

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百科事典マイペディア 「王夫之」の意味・わかりやすい解説

王夫之【おうふし】

中国,明末清初の学者。字は船山。湖南省衡陽の人。明の遺臣。復明運動に参加し,のち郷里の石船山に隠棲(いんせい)し著述に専念。《読通鑑論》《宋論》の歴史哲学は,歴史上の事件はすべて一定の型によって生起するとした。《周易外伝》《詩譚》などあるが,反清思想のため,ほとんど刊行されず,1842年曾国藩によって初めて刊行された。なかでも《黄書》は譚嗣同(たんしどう)など清末革命家に大きな影響を与えた。
→関連項目考証学章炳麟太虚明夷待訪録

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「王夫之」の意味・わかりやすい解説

王夫之
おうふうし
Wang Fu-zhi

[生]万暦47(1619)
[没]康煕31(1692).衡陽,石船山
中国,明末清初の思想家,文学者。湖南省衡陽の人。字は而農。号は薑斎,一瓠道人など。晩年,衡陽の石船山に居を構えたので,船山先生と称せられる。崇禎 15 (1642) 年挙人に及第したが,まもなく明朝が滅び満州族の清朝の成立にあった。反清の兵をあげて失敗し (48) ,明の亡命政権に仕え (50) ,内部の腐敗に絶望して帰郷,清兵の探索を逃れて潜伏したりしたが,その後は研究,著述に専念。その領域は家学ともいうべき春秋学をはじめきわめて広いが,一貫して流れるのは異民族統治下に身をひそめ,それを拒否する者の民族意識であり,特に晩年には朱子学から抜け出て独自の思想を示し,その著『読通鑑論』『宋論』『黄書』などは清末における排満思想に大きな影響を与えた。詩文にも長じ,『詩鐸』『夕堂永日緒論』など詩論にもすぐれた考察がみられる。その多くの著作は,大部分が清朝政府によって禁圧され,19世紀後半になり同じ湖南の人曾国藩によって『船山遺書』として刊行された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「王夫之」の解説

王 夫之
おうふうし

1619〜92
明末〜清初の学者
通称船山。湖南の人。明の遺臣として清に仕えず,衡陽の石船山に住んで著述と講学に孤高の生涯を送る。陽明学を排して宋学の正統を発揮し,中華(華夷)思想の高揚につとめ,のちに清末の排満革命思想に影響を与えた。『宋論』『読通鑑論』は史論として異色。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「王夫之」の解説

王夫之(おうふうし)
Wang Fuzhi

1619~92

清初の学者。湖南省衡陽の人。字は而農(じのう),号は船山。明の遺臣として清に仕えず学問と著述に専念。その著『読通鑑論』(どくつがんろん)や『宋論』は史論として名高い。彼の華夷(かい)思想は清末の革命思想に影響を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内の王夫之の言及

【天理】より

…このような朱熹の見解は,彼が当時目にした人間と社会に対する危機感にもとづくものであったが,朱子学が権威化してゆくにつれ,天理人欲の名において人間性を抑圧するようになったのも事実である。明末・清初の王夫之(船山)が〈人を離れて別に天があるわけではなく,欲を離れて別に理があるわけではない〉(《読四書大全説》巻八)などと述べ,清の戴震(たいしん)も情欲肯定論を提起した(《孟子字義疏証》)のは,それに対する反発であった。【三浦 国雄】。…

※「王夫之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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