鎌倉末期~南北朝時代の禅僧で,日本の初期水墨画の重要な作家の一人。はじめ,(黙庵)是一といったが,鎌倉の浄智寺で,無学祖元の法嗣である見山崇喜に師事し,法諱(ほうき)を霊淵に改めた。この改名については,弟子に〈霊〉の系字を与えた帰化元僧清拙正澄(せいせつしようちよう)によるものではないかとの説もある。嘉暦年間(1326-29),元に渡り,明州の天童景徳禅寺の雲外雲岫(うんがいうんしゆう)の門に入り,ついで平石如砥(へいせきによし),育王山広利禅寺の月江正印(げつこうしよういん)に歴参し禅の修行を積み,秀州本覚寺の了庵清欲の下で蔵主(ぞうす)となり,1344年楚石梵琦(そせきぼんき)の会下で首座(しゆそ)の職に上った。45年ころ,やがて帰朝という時にかの地で没した。画に巧みなことは元にある時から知られ,画僧牧谿(もつけい)が中興した西湖の六通寺を訪れた時,〈牧谿再来〉といわれた(《空華日工集》)。現存の画跡は水墨による禅宗の祖師散聖の類で,日本の初期水墨画人の中では可翁よりさらに徹底した禅余画家といえ,道釈人物画の本道を歩いた人であった。代表作として,祥符紹密賛《四睡図》(前田育徳会),月江正印賛《布袋図》,楚石梵琦賛《白衣観音図》などがあり,いずれも滋潤でおおらかな画風を示している。
執筆者:林 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生没年未詳。14世紀ごろ中国で活躍した日本人水墨画家。本名は是一。鎌倉浄智(じょうち)寺の見山崇喜(けんざんすうき)の弟子となり、霊淵と改名。嘉暦(かりゃく)(1326~29)ごろ元に渡り、天童山の平石如砥(へいせきにょし)、育王山の月江正印(げっこうしょういん)、寿山本覚寺の了庵清欲(りょうあんせいよく)や楚石梵琦(そせきぼんき)らの名僧に参禅した。臨安の浄慈寺にいたときよりすでに能画家として知られ、たまたま西湖六通寺(りくつうじ)に遊んだおり、そこの院主より当寺の開山、牧谿和尚(もっけいおしょう)の再来といわれ、その遺印を授かった。その絵は禅の余技的制作として出発したと思われるが、やがて1344年(至正4)楚石のもとで「二十二祖像」のような大作を描いていることから、画僧として本格的な活動をしたとみられる。45年ごろ中国で没す。遺作は日本にもたらされたが、長く黙庵を中国人と見誤っていた。その作品は多くが水墨の道釈人物画で、しかも前記の元代の名僧たちの賛があるところに特色がある。代表作に『四睡(しすい)図』(東京・前田育徳会)、『布袋(ほてい)図』(静岡・MOA美術館)などがある。
[榊原 悟]
『渡辺一著『東山水墨画の研究』(1985・中央公論美術出版)』▽『金沢弘著『日本美術絵画全集1 可翁/明兆』(1977・集英社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
生没年不詳。鎌倉後期~南北朝期の禅僧・画家。鎌倉末期に元に渡り,中国で了庵清欲(りょうあんせいよく)・平石如砥(へいせきにょし)・月江正印(げっこうしょういん)・楚石梵琦(そせきぼんき)に参じ,1345年頃客死という。水墨の道釈人物画を描き,「四睡図」「布袋図」(月江正印賛)「布袋図」(了庵清欲賛)(以上重文)「白衣観音図」(平石如砥賛)が残る。中国で「牧谿(もっけい)の再来」とよばれたが,画風は元画の影響をうけ抽象的な曲線美を特徴とする。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加