改訂新版 世界大百科事典 「RKO映画会社」の意味・わかりやすい解説
RKO映画[会社] (アールケーオーえいが)
RKO Radio Pictures Inc.
アメリカの映画会社。1928年,ラジオ・パテント会社,ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)が,数度にわたる吸収,合併,提携を経て,興行会社キース・アービー・オーフィアム(KAO)を傘下におさめ,製作・配給・興行部門をもつ映画企業体として設立した。RCAは,1905年にできたアメリカ最初の映画館といえる〈ニッケル・オデオン〉の経営者J.フリューラーが中心になって,12年に創立した配給会社ミューチュアルと,さらにその傘下にあった独立製作者群にまでさかのぼる複雑な社歴をもつ。RKOも破産,経営陣の交替,株の売却等々によってさまざまな資本系統に取り巻かれたが,たび重なる財政的危機にもかかわらず,27年間もちこたえた。その間に,キャサリン・ヘプバーン,ケーリー・グラントの名コンビ(《男装》(1936)に始まる)を売り出し,フレッド・アステア,ジンジャー・ロジャーズの9本のダンス映画をはじめ,《キング・コング》(1933),《男の敵》(1935),《スコットランドのメリー》(1936),《赤ちゃん教育》(1938),《市民ケーン》(1941),RKO初のカラー作品《海賊バラクーダ》(1945),《アパッチ砦》(1947),《ママの想い出》(1948)など,他のメジャー会社と違いジャンルにこだわらず(ユニバーサル映画とともにハリウッドでもっとも〈芸術的に寛大な〉映画会社といわれた),多彩な作品を生み出した。またウォルト・ディズニー(《ピノキオ》1940,《不思議の国のアリス》1951,など),サミュエル・ゴールドウィン(《我等の生涯の最良の年》1946,など),デービッド・O.セルズニック(《断崖》1941,など)の絶頂期のプロデュース作品を配給して,ハリウッドの〈ビッグ・ファイブ〉(五大映画会社)の一つになった。40年代に迎えた財政的危機はバル・ルートン製作の《キャット・ピープル》(1942),《死体を売る男》(1945),《恐怖の精神病院》(1946)など,この会社の売物の一つである低額予算の〈心理的スリラー〉あるいは恐怖映画と,ヒッチコックの《汚名》(1946)などの成功によって救われた。しかし,48年にハワード・ヒューズが支配権を握ったことが混乱を招き,この後MGMに移って才腕を振るう製作部長ドーリ・シャリーをはじめ,多くの人材が去って製作が停滞。その間にハリウッドの〈赤狩り〉によって,作曲家のハンス・アイスラーら進歩的映画人も次々に去った。株主と対立を続けたヒューズは同社の株のすべてを手に入れ,53年に映画の製作をストップして,RKO27年間の結晶である在庫フィルムと撮影所の全資産をゼネラル・タイヤ&ラバー社に売却。撮影所はRKOゼネラルとなり,57年にルシル・ボールのテレビ製作会社デジルー・プロに売却,さらに60年ガルフ&ウェスタン・インダストリーズ社(現在のパラマウントの親会社)に売却された。
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執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報