改訂新版 世界大百科事典 「もののあはれ」の意味・わかりやすい解説
もののあはれ (もののあわれ)
言葉としては10世紀半ば平安中期ごろから用いられ,《源氏物語》には12例を見る。当時の生活意識上の一規範であった。もともと〈あはれ〉は感嘆詞の〈ああ〉と〈はれ〉とがつづまった語であり,また〈もの〉は古くは神異なもの,あるいは霊的存在をさす語であったが,中古には漠然と対象を限定しない形式語となった。〈もののあはれ〉の語はそうした漠然とした主観的感情をさらに客体化し,対象として捉え直したものといえよう。これを積極的な文芸理念として提唱したのは,近世中期の本居宣長である。その《紫文要領》および《源氏物語玉の小櫛》によれば,〈もののあはれ〉とは人が自然や人事の諸相に触発されて発する感動である。〈もののあはれを知る〉とは,そのことを通して,最も人間らしく,すなおでしみじみとやさしい情感を催し,その意味で対象を識別し得る能力を具えることであり,それは世態人情に通ずることによって得られる。物語はこういう人間自然の情感をありのままに書き表すところに趣旨があり,儒教仏教のいう教戒とは無縁である,というのである。この論は近世幕藩体制下に,その政治文化のイデオロギーであった教戒的文学観を打破し,文芸が道徳や宗教の道具ではないことを明らかにし,その自律性を確立しようとした点で,まさに画期的であった。
その後この論は近世・明治期を通じておおむね信奉されてきたが,大正・昭和期に入ると,ドイツ観念論哲学の影響下に,〈もの〉についての論議を生み,あるいは永遠のイデーのごときものを措定し,あるいは物自体(Ding an sich)の概念をあてはめようともした。第2次大戦後はそれらの論の代りに,この論が純粋抒情を核心とする点で,短詩形文学の解釈には有効であっても,時間的・空間的延長を持つ物語や小説には,必ずしも十分にあてはまらないことや,また宣長の説く人情が,とかくその女性的で弱々しくやさしい面に偏って,男性的あるいは行動的意志的人間の側面には冷淡であることが,その弱点として気付かれてきている。
執筆者:今井 源衛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報