フェルディナント

百科事典マイペディア 「フェルディナント」の意味・わかりやすい解説

フェルディナント[1世]【フェルディナント】

神聖ローマ皇帝(1556年―1564年)。カール5世の弟。オーストリアハプスブルク家の始祖。1521年オーストリアの世襲領を委託され,1526年ボヘミア・ハンガリー王。ハンガリーの対立王ザポリアとその支持者オスマン帝国のスレイマン1世と長く抗争国内の新旧両派の仲裁に努め,1555年アウクスブルクの宗教和議成立させ,翌年帝位についた。
→関連項目フェルディナント[2世]

フェルディナント[2世]【フェルディナント】

神聖ローマ皇帝(1619年―1637年)。フェルディナント1世の孫。敬虔なカトリック教徒で,プロテスタントを激しく迫害三十年戦争を誘発した。
→関連項目ワレンシュタイン

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フェルディナント」の意味・わかりやすい解説

フェルディナント(1世)
ふぇるでぃなんと
Ferdinand Ⅰ
(1503―1564)

神聖ローマ皇帝(在位1556~64)。ドイツ国王(在位1531~64)。カール5世の弟。カールの皇帝就任後ネーデルラントで統治の任にあたり、1621年オーストリア領を与えられて、皇帝のドイツ不在中帝国の国事を代行した。26年妃(きさき)の弟ラヨシュの死後ボヘミア、ハンガリーを相続したが、トルコに支援された対立王ザポーリャの異議にあい、29年、31年、41年としばしばトルコの侵入に悩まされた。31年ドイツ国王に選立され、以後帝国議会を指導、宗教改革問題ではルター派の禁圧の不可能なことを認識して両派の和解に努め、ローマ教皇、皇帝の意に反して55年アウクスブルクの和議を成立させた。56年カール5世の後を継いで皇帝となり、58年戴冠(たいかん)した。トリエント公会議では教皇に協力し、イエズス会を自領内に招いたが、自領内での宗教的対立の融和にも努力した。オーストリア・ハプスブルク家の祖である。

[中村賢二郎]


フェルディナント(2世)
ふぇるでぃなんと
Ferdinand Ⅱ
(1578―1637)

神聖ローマ皇帝(在位1619~37)。フェルディナント1世の孫。イエズス会の教育を受けた反宗教改革の典型的な君主。1617年ボヘミア王、18年ハンガリー王となり、新教派を圧迫したため、18年ボヘミア貴族の反乱を招き、三十年戦争の発端をつくった。19年、皇帝に即位すると、ボヘミア議会は彼のボヘミア王廃位を宣言し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世を王に選立したため、内外の旧教勢力の援助を受けて同年ワイサーベルクにフリードリヒを破り、ついでワレンシュタインを起用してデンマーク王クリスティアンの侵入を撃退し、一時は全ドイツを制したが、スウェーデン王グスタフ・アドルフの侵入を受け、戦争の渦中に没した。

[中村賢二郎]


フェルディナント(3世)
ふぇるでぃなんと
Ferdinand Ⅲ
(1608―1657)

神聖ローマ皇帝(在位1637~57)。ドイツ国王(在位1636~57)。1625年ハンガリーの、27年ボヘミアの王位についた。34年ワレンシュタインの死後、皇帝軍総司令官となって、三十年戦争に皇帝軍を統率、同年ネルトリンゲンの戦いに新教派軍を撃破し、35年の新教派諸侯とのプラハの和約締結に貢献した。皇帝即位後はフランス、スウェーデンとの戦争の続行に腐心し、48年ようやくウェストファリア条約の成立にこぎ着けた。その和平交渉では帝国体制の維持と帝国における皇帝権の優位の確保のために努力したが、それに成功せず、以後皇帝権は名目的存在と化していった。

[中村賢二郎]

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旺文社世界史事典 三訂版 「フェルディナント」の解説

フェルディナント(2世)
Ferdinand Ⅱ

1578〜1637
神聖ローマ皇帝(在位1619〜37)
フェルディナント1世の孫。イエズス会の教育を受けた熱心なカトリック教徒。1617年ベーメン王となり,新教徒の弾圧に着手したので,ベーメンの新教徒はフェルディナントの廃位を宣言してファルツ選帝侯を迎え,三十年戦争(1618〜48)の誘因となった。1619年に皇帝となり,戦争の初期にファルツ選帝侯を破って新教勢力を駆逐し,カトリック以外の信仰を禁じた。

フェルディナント(1世)
Ferdinand Ⅰ

1503〜64
神聖ローマ皇帝(在位1556〜64)
カール5世の弟で,オーストリアのハプスブルク家の始祖。1526年ベーメン・ハンガリーの王位につき,ハプスブルク家多年の宿望を達成した。1555年アウグスブルクの宗教和議でルター派の信仰の自由を認め,カトリック教会の普遍的・統一的支配体制は名実ともに終了した。

フェルディナント(フランツ)
Franz Ferdinand

1863〜1914
オーストリアの皇族
帝位継承者とされていたが,1914年ボスニアの首都サライェヴォでセルビアの青年プリンツィプに夫妻ともに暗殺され,第一次世界大戦の導火線となった。

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世界大百科事典(旧版)内のフェルディナントの言及

【アウクスブルクの宗教和議】より

…時の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は,ドイツにおける宗教改革運動を,カトリックの立場から抑圧しようとつとめたが失敗。結局,ドイツ問題の処理をゆだねられたカールの弟フェルディナント(のち神聖ローマ皇帝,1世)の主宰するこの帝国議会で,〈アウクスブルク信仰告白〉を奉ずるルター主義者に,カトリックと同等の権利が承認された。しかし,これは一種の政治的妥協であり,ドイツ国民一般に信教の自由を保障したものではない。…

【カール[5世]】より

…そのうえ,皇帝権の強化をよろこばぬ諸侯は,52年,ザクセン公モーリツを中心に,ほとんど宗派をこえた反乱をおこし,フランス王アンリ2世もこれに手を貸した。カールの弟フェルディナント(1503‐64,1世,神聖ローマ皇帝としては,在位1556‐64)は,ハプスブルク家の本領オーストリアのほか,ボヘミアとハンガリーの王位をもついでいたが,ここにいたってカールはドイツ問題の処理をフェルディナントにゆだね(アウクスブルクの宗教和議),ネーデルラントやスペイン,ナポリの支配権は長子フェリペに譲り,56年スペインの片田舎ユステに隠退した。以後ハプスブルク家は,フェリペ2世のスペイン系と皇帝フェルディナント1世のオーストリア系に分かれる。…

【宗教改革】より

…このシュマルカルデン戦争(1546‐47)は皇帝側の勝利に終わったが,それに乗じて皇帝の統治権を強化せんとするカール5世の野心は,52年に宗派をこえたドイツ諸侯の反撃にあい,むなしくついえ去った。失意の皇帝がネーデルラントに退いたのち,カールの弟フェルディナント1世が主宰するアウクスブルクの帝国議会で,ドイツの宗教問題に政治的な決着がつけられた。このいわゆるアウクスブルクの宗教和議により,ルター派は帝国内におけるカトリックとの同権を認められたが,両宗派を選択する権利が諸侯と帝国都市当局のみに与えられた事実からもわかるように,この取決めは領邦教会制の法的な是認を意味していた。…

【ハプスブルク家】より

…その帝国改革は失敗に終わるが,96年その子フィリップ1世美公(1478‐1506)をスペイン王女フアナと結婚させ,孫のカール5世が1519年ドイツ国王に選出されたとき(翌20年神聖ローマ皇帝),スペイン王国との結合によるハプスブルク世界帝国が実現する。加えて東方に対しても孫フェルディナント1世を16年にボヘミア・ハンガリー王女アンナと婚約させている。こうした結婚政策はフランスとの対立を激化させ,これと結んだオスマン・トルコの北上を招いたが,26年モハーチの戦でのラヨシュ2世の敗北はボヘミア・ハンガリー両王国を王家に結びつけたのである。…

【ブルガリア】より

…またロシアとの関係が悪化し,翌86年,親ロシア派のクーデタによって公は退位させられた。87年,次の公にドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ家出身のフェルディナントが選ばれ,スタンボロフが首相に任命された。しかしフェルディナントはロシアとの関係を重視し,94年にはオスマン帝国との関係を重視し反ロシア政策をとるスタンボロフを解任し,長子ボリス(のちボリス3世)を正教に改宗させるなど,対ロシア関係の改善を図った。…

※「フェルディナント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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