翻訳|Latin
インド・ヨーロッパ語族の一分派であるイタリック語派に属する言語。この語派にはラテン語以外にオスク・ウンブリア語がふくまれるが,この二つの言語の間にははっきりとした方言差が認められる。また第2次大戦後にはベネト語もこの語派に属するとみる説が有力となっている。しかしこれらの諸言語は,ローマの政治力の拡大とともに,その言語であるラテン語に吸収されてしまった。ラテン語はローマ帝国の広大な版図で行われることとなり,そしてローマ帝国の崩壊の後も,東の東方正教のギリシア語に対する西のローマ・カトリック教会の公用語として,また中世ヨーロッパの共通の文語として使用され,近世の初めまでその伝統は変わらなかった。一方,民衆の話すラテン語(口語)は,ローマ軍の戦線とともに広がってヨーロッパの各地に定着し,長い歴史の中でいわゆる〈ロマンス諸語〉に変貌していった。今日のイタリア,フランス,スペイン,ポルトガル,ルーマニアなどの諸言語は,みなラテン語の後裔(こうえい)である。その意味ではラテン語は古代から現代まで継承され生き続けてきたし,現代ヨーロッパの諸言語のあらゆる面に,われわれはその古い姿をうかがうことができる。
ラテン語はその名の通り,ラティウムLatiumと呼ばれたテベレ川に接する七つの丘のあるせまい地域,つまり現在のローマの一画の住民の言語にすぎなかった。前1千年紀の後半になってもローマの北部にはエトルリアが栄え,エトルリア語が話されていた。そしてその東にはウンブリア語が,ローマの南部から西部にはオスク語が有力であった。もちろんシチリアをはじめとするイタリアの南端部一帯には,早くからギリシアの植民が盛んであったから,交易にはギリシア語が広く用いられていた。ラテン語の歴史は主として前5世紀以後にはじまる。また,これに近い方言の痕跡もこの頃のローマに近い町の碑文に認められている。それはエトルリア領でもあったファレリFaleriiと呼ばれた町の住民の言語(ファリスキ語Falisci)である(これをラテン語とあわせてラテン・ファリスキ語群とも呼ばれる)。一例として,盃に刻まれた短文と,そのラテン語訳をあげると,
foied uino pipafo cra carebo.(ファリスキ語)
hodie uinum bibam cras carebo.(ラテン語)
〈今日は・酒を・私は飲むだろう・明日は・(飲め)ないだろう。〉
ちなみにこの文章のfoied(<*fo-died)=hodieは今日のイタリア語,スペイン語のoggi,hoyの基であり,フランス語のaujourd'huiのhuiの基でもある。またuino=uinum(対格形)は,同じ現代ロマンス語のvino,vino,vin,さらにはロマンス語から借入された英語,ドイツ語のwine,Weinの源の形である。
小さな田舎の言葉にすぎなかったラテン語は,広大なローマ帝国の言語となるわけであるが,これに多くの語彙を供給し,文章表現の範となり,詩型までもあたえて,その育成に力をかしたのはギリシア語である。ローマの文人はギリシア語を自由に話し,文学を学んでその文化を吸収した。そして彼らは,できる限りギリシア語をラテン語に移しかえて使おうと努めた。たとえば,現在の英語compositionの基になったラテン語のcom-positio(com-pono〈ともにおく〉の名詞形)は,本来はギリシア語のsyn-taksis(syn-tattōの名詞化)をそのまままねてつくった翻訳のラテン語である。英語のnegotiationという語は今日では〈交渉〉とか〈取引〉をあらわすが,これはラテン語のnegotiumに帰着する。これはnec否定詞とotium〈暇(ひま)〉の合成形で,〈暇がないこと〉つまり〈仕事〉である。そしてこの語の基は,ギリシア語の同じ語形成を示す語a-scholiaであった。しかし,日常の語彙から学問的なそれまで,あらゆる分野でこのようなラテン語化(ラテン語訳)の努力が続けられたにもかかわらず,一方では現代語のなかに多くのラテン語経由のギリシア語(訳されずにそのまま取り入れられたもの)の形をもっている。たとえばacademia(英語academy。以下かっこ内は関係のある英語の形をあげる。ただし同一綴りの場合は省略),chorus,gymnasium,harmonia(harmony),lyra・lyricus(lyric),machina(machine),magicus(magic),orchestra,philosophia(philosophy),rhythmus(rhythm),schola(school),theatrum(theater)などである。このようにギリシア語を学んだラテン人が,その伝統を継承して,後のヨーロッパに伝えた功績は非常に大きい。
エトルリア語もラテン語に影響をあたえている。miles〈兵士〉(military。以下かっこ内は関係のある英語の形),persona〈面〉(person),satelles〈ボディガード〉(satellite),servus〈奴隷〉(serve,service),urbs〈町〉(urban)などの普通名詞のほか,Marcus Tullius Cicero,Gaius Julius Caesarのような名-姓-あだ名という名前のつけ方とその名称,さらにはアルファベットも,エトルリア語のそれが源らしい。アルファベットに関していえば,歴史時代にも依然として用いられているC.(=Gaius),Cn.(=Gnaeus)という個人名の略号からもわかるように,ギリシア文字のΓに由来するCが[k]と[g]のいずれをもあらわしているということは,ラテン・アルファベットがギリシア人からでなくて,kとgという無声と有声の対立をもたないエトルリア語の話し手から教えられたことを暗示している。しかし,Cがkとgの共用では,ラテン語としては不便だから,後にC[k]と区別してCにIを加えてG[g]がつくられたのである。
われわれが古典ラテン語Classical Latinと呼ぶラテン語は,カエサル,キケロ,ウェルギリウス,ホラティウスら前1世紀ころから数世紀の間に活躍した作家たちの綴った文語(それ以前のラテン語にくらべると,さまざまな面での整理・純化がなされている)を範とした書き言葉のラテン語であり,その文法的な組織はきわめて整然としていて,規則的である。
ラテン語は形態論的にいえば,典型的な屈折語のタイプに属する。名詞は性(男・女・中),数(単・複),格(主・対・与・属・奪・呼)の三つの要素を常に備え,形容詞もこれに準ずる。dominus〈主人〉は,男性,単数,主格(主人は/が)をあらわし,dominae〈女主人〉は女性,単数,与格または属格,複数主格をあらわす。このように一つの形が二つ以上の数や格の機能を兼ねることがあるが,多くの場合は文脈によってそのうちの一つが選ばれるから,意味の混同のおそれはあまりない。
動詞は人称(1・2・3),数(単・複),時制(現在・未完了・未来・完了・過去完了・未来完了),態(能動・受動。ただし,ときに能動形を欠く形あり),法(直説・命令・接続)の五つの要素を担っている。regis〈支配する〉は2人称(1人称はrego)・単数・現在・能動・直説法の形である。これだけの文法的な機能を一つの動詞形がふくむとすると,すべての差別は非常に複雑なものが予想されるが,実際にはギリシア語にくらべてもはるかに規則的で見分けやすい。動詞組織は大別して二つに分かれ,現在・未完了・未来と完了・過去完了・未来完了がそれぞれ一群をなし,おのおのに語幹一つと現在の不定法それに受動完了分詞があたえられれば,その全人称変化はすべての態,法を通じてほぼ自動的にでき上がってくる。たとえば上掲のrego(不定法regere)ならば,完了形はrexi(〈*reg-s-i,語幹はrex-,-iは1人称単数の語尾)であり,amo〈愛する〉(不定法amare)ならばamavi(ama-v-i,語幹はamav-)である。現在と完了の語幹は常に異なるから,これを基に各時制の人称形は一定の規則に従って機械的に成立する。
動詞組織にとって重要なものは分詞形である。ラテン語はギリシア語と同じように能動の現在分詞をもっているが,受動のそれはなく,逆に完了の受動分詞はもつが,その能動形をもたない。つまりギリシア語より二つ形が少ない。この受動の完了形の分詞(たとえばamatus(男性・単数・主格)=英語loved)は受動の完了,過去完了,未来完了の形を合成的につくるのに不可欠のものである。のみならず,この受動の完了分詞がいわゆる分詞構文(ラテン語では奪格の絶対的用法という。〈絶対的〉というのは,その文の他の要素から切りはなされているという意)をつくるのに好んで使用される。その場合,ギリシア語のように能動の分詞があれば当然能動で表現すべきところを受動であらわさざるをえないが,それによって文全体が簡潔になり,副文章を用いずにすむ。その使い方の巧拙は文の構成そのものに影響する。たとえば〈(ローマの)町が建てられたときに〉という状況は,condita urbe(直訳すれば〈建てられた町によって〉)の2語で表現される。もちろん現在分詞も同じように用いられるが,これは能動形だから幅広く使うことができる。neque senatu interveniente et adversariis negantibus……, transiit in…… 〈元老院が(senatu)介入せず(ne interveniente),さらに敵が(adversariis)……しないという(negantibus)ので,彼は……に移動した(transiit in)〉。この分詞構文は理由をふくめたあらゆる状況の説明に自由に用いられるから,非常に活用範囲が広い。もう一つおもしろいことは,ラテン語にはギリシア語と違って英語beingに相当するto beの動詞の現在分詞がないということである。そこで〈キケロが執政官であったときに〉という状況の説明には,Cicerone consuleと二つの名詞の奪格形を並べればよく,〈私が少年のとき〉はme pueroのように,代名詞と名詞のそれの連続で表現される。これは一見無理な構文のように思われるが,ラテン語の文の〈引きしめ〉に大いに役立っている。そしてこれらが現代のヨーロッパ語の分詞構文の出発点である。できるだけ簡潔な文章のなかにできるだけ豊富な内容を,しかも明確に表現すること,これがラテン文人の理想であった。その重要な一つのポイントが,この分詞の使い方にある。この伝統はヨーロッパの教養として今日にも生きているといえよう。
こうした文語のラテン語の下には,文字を知らない民衆の話す口語のラテン語(〈俗ラテン語Vulgar Latin〉とも呼ばれる)があって,早くから変化をおこしていた。その事実は多くの碑文からうかがうことができる。墓石に文を刻む石屋は,正しい綴りを忘れてしまったのか,しばしば誤って刻んでいる。しかしそのようなまちがった綴りはしばしば彼らの発音の反映である。たとえば〈夫,妻〉をあらわすconiunxの-n-を落としてconiuxとしたり,(filio)dulcissimo〈とりわけ可愛い(息子に)〉とあるべきところをdulcismoとしている。
のちのロマンス語では,h-は一般に正書法上のものにすぎないが,この傾向はすでに古典期のラテン語にみられ,humanus〈人間の〉をumanusと書くなどの誤りがしばしば指摘される。語末の-mの発音も非常に早くから弱まっていた。Appendix Probiという3世紀末ころのものと思われる語彙のリストは,プロブスという文法家の書物に〈付せられたもの(appendix)〉としてこの名で呼ばれるが,これは具体的にはcamera non cammara〈cammaraでなくてcamera(部屋)〉のように,誤りやすい例を教えるリストである。これをみると,音変化や音の消失による語形の変化,類推による形の規則化がかなり進んでいることがわかる。このような変化はラテン語の組織そのものに大きな影響をあたえ,伝達に支障をもたらす。たとえば語末の子音の弱まりは,rosa〈ばら(主格)〉,rosam(対格),rosae(与格・属格)などの格の区別をあいまいにし,ついには格の消失に導く。語中の母音間のbがvに変化すると(ripa〈岸〉>riba>riva。フランス語rive,rival参照),-bi-をマークとする多くの未来形と,-vi-をマークとする完了形が衝突してくる。その結果,未来形は全体的に消滅していく。
語彙にしても,eo〈いく〉,edo〈たべる〉,do〈あたえる〉など,人称変化をする際その頻度の高い形に1音節語が多い動詞は,vado,ambulo〈いく〉,manduco〈たべる〉,dono〈あたえる〉のような形に代えられてしまった。またauris〈耳〉,genu〈膝〉のような語は,その縮小辞であるauricula,genuculumという形がロマンス語の基礎になっている。これは文字とはかかわりのない民衆の好みのあらわれである。またその好みが,地域によって異なる場合もある。ラテン語にはuxor〈妻〉,mulier〈婦人〉,femina〈女〉の三つの語彙があったが,uxorはvir〈男,夫〉とともに早くに口語から後退した。今日,ロマンス諸語で〈妻〉を意味する語は,フランス語はfeminaの系統をひくfemmeだが,イタリア語,スペイン語はmulierの後裔であるmoglie,mujerである。
→ロマンス語
第2次大戦前まではラテン語はヨーロッパにおける〈教養〉の一つの象徴であった。中世はもちろん近世になっても大学ではラテン語の講義が行われていた。ラテン語は西欧文化のなかで,ある重要な位置を占めると言ってよいだろう。もしローマがケルト人の攻撃に屈してラテン語が早くに死滅していたとしたら,おそらく今日のヨーロッパの諸言語は,表現も語彙もきわめて貧弱なものになっていただろう。それは英語の語彙のなかに占めるラテン系の語彙の数や,Latinismと呼ばれる表現を思えば,おのずから明らかなことである。
→ラテン語教育
執筆者:風間 喜代三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ギリシア語と並んで西欧の古典語であるラテン語Latinは、古代ローマ帝国の公用語であり、中世から近代の初めに至るまでカトリック教会を中心とする全ヨーロッパの知識層の、いわば共通の文語として用いられた。また、現在のフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ルーマニアなど、すべてのロマンス諸語の母体である。
[風間喜代三]
ラテン語はインド・ヨーロッパ語族の一分派であるイタリック語派に属する。この語派に属する方言としては、ラテン語と、それに隣接するファリスキ語のほかにオスク・ウンブリア語Oscan-Umbrianと、異論もあるが現在ではベネト語Veneticが加えられている。それらの碑文の資料はいずれも紀元前数世紀のものだが、ローマの政治力の拡大とともに、すべてラテン語に吸収されてしまった。オスク語は主としてローマの南、カンパニア地方の住民の言語で、紀元79年に火山噴火で埋没したポンペイの町の落書きにもこの言語の跡がみられる。オスク・ウンブリア語はローマの北東、ウンブリア地方の言語をさすが、その主たる資料はグビオの町から15世紀に発見された9枚の青銅板に刻まれた宗教上の規約である。ベネト語の300余の碑文は、ポー川の北部からトリエステに至るアドリア海岸に近い町々から出土したものである。この言語の、ラテン語とオスク・ウンブリア語との関係は明らかでない。
ラテン語とオスク・ウンブリア語はともにイタリック語派に共通する多くの特徴をもっているが、印欧祖語に想定されるkwの音の現れに関してquとpというはっきりとした差があり、しかも同じ違いが隣接するケルト語派の内部にも認められるところから、「イタロケルト語派」の設定に重要な根拠を与えている。
ラテン語は本来、ラティウムLatiumとよばれた七つの丘の地からおこったローマ人の言語だが、その形成に大きな影響を与えたのはギリシア語とエトルリア語である。ギリシア語は、文化的にはるかに優れた先進国の言語であり、ローマの文人のことごとくがこれを熟知し、その文学を範として、詩型に至るまでもそれと同じ型を踏襲したほどであるから、その影響は長くて深い。ラテン人は、深い内容をもつギリシア語の単語をラテン語に翻訳しようと苦心したが、それでも訳しきれずにそのまま借用した形が、近代の諸言語に数多く伝えられている。それらをみるとacademy, gymnasium, philosophy, rhythm, theaterなど学術的な用語も多いが、purple(ラテン語の形はpurpura)、machine(ラテン語māc〔h〕ina「道具」)、lanternなどのように、日常の単語も含まれている。これは文人の手を経たものではなくて、イタリア南部にはシチリアを中心に、非常に早くからギリシアの植民市がつくられていたために、そこで民衆が商売などを通じて直接借用した語彙(ごい)である。
ギリシア語ほど根深くはないが、エトルリア語とその文化の影響もラテン語にとって無視することはできない。ギリシア文字と同じフェニキア系のアルファベットで綴(つづ)られた万余の碑文を資料とするこの言語の全貌(ぜんぼう)はいまだ明らかでなく、その系統も確かではないが、この言語の話し手が、ローマの栄える以前に、その北部で有力な文化を誇っていたことは疑いない。ローマ史家も、前4世紀の末ごろにはエトルリア語の文書がローマの若者たちによって、後のギリシア語と同じくらい学習されていたと述べている。彼らはまずラテン人に、われわれの知っているラテン・アルファベットを供給した。このアルファベットは、Xをkhでなくksの連続にあてる西ギリシア系のものだが、不思議なことにギリシア語のgを表すΓ(ガンマ、ラテン字C)の字をラテン人は初めgとkに併用し、のちにはもっぱらkの音に用いた。GはCにを加えてのちにつくられた字である。そして、Kの字は知っていながら、ほとんど使用しない。この不可解な事実は、有声と無声の破裂音の対立を欠き、同じようなギリシア文字の使用を示すエトルリア語の話し手を仲介としたと考えることによって解決されよう。このほかGaius Julius Caesar, Marcus Tullius Ciceroのような名―姓―あだ名という人名のつけ方も、おそらくエトルリア起源だろうとされている。ローマ人の名称そのものにも、エトルリア系と思われるものが数多く指摘される。そのなかにはCato, Cicero, Pisoなど有名な人々の名も含まれるばかりでなく、ローマという名称そのものもエトルリア起源の可能性がある。このほか多くの普通名詞も借用されたし(たとえばfenestra「窓」、フランス語fenêtre)、ギリシア語の単語で、エトルリア経由でラテン語に入ったと思われる形も少なくない。われわれの知るperson(ラテン語persōna「面」、ギリシア語prosōpon「顔」)、scene(ラテン語scaena「舞台」、ギリシア語skēnē)もその一例である。ギリシアの新喜劇の伝統を継いで、前3世紀の末から前2世紀にかけて多くの喜劇作品を書いたプラウトスは、当時の生々しい口語の姿を伝えている。
このようにギリシア、エトルリアという大きな文化圏からさまざまな要素を吸収しつつ、ラテン語は、文学に歴史に膨大な量の作品を生んだ古典期の完成された文語に向かって徐々に洗練され、充実していった。前6世紀ごろのものと推定される金のピンに彫られた銘文と古典ラテン語を比較すると、数世紀の間の変化がどのように進んだかを推測することができる。これはローマの南東にあるプラエネステの町から発見されたものである。Manios med vhevhaked Numasioi.=(古典ラテン語)Manius mē fēcit Numerioō.「マニウスがヌメリウスのために私をつくった」。まず主格単数-usはまだギリシア語と同じ-osであり、同様に与格のそれは-ōでなくて-oi(=-ōi)であった。また、人称の代名詞の対格mēは、mēdという形で示されている。またNumasioiという形では、のちに母音間でおこった-s->-r-という音変化がみられない点にも注目すべきである。vhevhakedのvhはfを表すが、この重複を用いたfaciō「つくる」の完了形は古典期にはみられず、オスク語に共通する形である。
次に前3世紀の中ごろに書かれた、ルキウス・コルネリウス・スキピオをたたえた碑文の一節をあげると、Honc oino ploirume cosentiont R〔omane〕/duonoro optuma fuise viro,/Luciom Scipione.=(古典ラテン語)Hunc ūnum plūrimī cōnsentiunt Rōmānī bonōrum optimum fuisse virum, Lūcium Scīpiōnem.「ほとんどのローマ人はこの一人の人L・Sがよき人々のなかでもっともよき男であったことに同意する」。ここでも古典期のuはまだoで書かれ、oiはūになっていない。またduo->bo-の変化もおこっていない。この碑文で興味深いことは、Luciom以外の対格のマークである語末のmがみな書かれていないことである。またcosentiuntではsの前のnがない。これは、教養のない石屋が彫り落としたのであろう。おそらく彼らのなまの発音では、語末のmや、sの前のnが意識されないほどに弱まっていたからである。このような正書法の乱れは、古典期の碑文にもしばしばみられる現象であり、そこに当時の話しことばの実態をうかがうことができる。
[風間喜代三]
われわれが一般にラテン語というとき、その言語は散文においてはカエサル、キケロ、詩においてはウェルギリウスなどに代表される十分に練り上げられたラテン語をさしている。それは、文法家M・T・ウァローのことばを借りれば、「ローマの言語で誤りなく話すことの規則」を守った、表現にも、語彙(ごい)の選択にもすべてにみやびた趣(おもむき)を理想とする、文人によって推敲(すいこう)された文章のことばであった。名詞は男・女・中の三性を区別し、主(呼)・対・属・与・奪格をもち、動詞は現在・完了の二語幹にそれぞれ三時制(現在・未完了・未来と、完了・過去完了・未来完了)、能動と受動の二態、直接法と接続法の二法をもつ、形態論的にはギリシア語に比べるときわめて整然とした組織をもった言語である。ローマの文人はそれを駆使して、できるだけ簡潔な文章により、できるだけ豊富な内容を表現しようと努めた。このラテン語を学ぶことは、すべてのヨーロッパの知識人の必須(ひっす)の教養であったから、その文章を尊ぶ心は近代に至るまで継承され、近代諸語の表現の形成上に大きな影響を与えた。ラテン人の文章は黙読の書物のためのものではない。聴き手を予想し、彼らを説得するために、リズムと音の調和にも十分に心を配ったものでなければならない。キケロは『弁舌家』のなかで、ことばとその内容に加えて、リズムの必要性を強調している。「リズムは聴き手に気づかれずに飛び去っていく。けれどもそれが欠けていると、ことばそのものが喜びを減じてしまう」。だから、一定の韻律をもった詩よりも、散文のほうがむずかしい。しかし、散文でも詩でも「そのいずれにもあるのは材料とその扱いである。材料というのは語であり、扱いというのは語の配置である。さらにこのいずれにも三つの部分があるが、語のそれは比喩(ひゆ)・新語・古語である――本来の意味で用いられた語については、ここでなにも述べることはないのだから――。配置についてのそれをいうならば、それは配列compositiō、均整concinnitās、リズムnumerusである」。われわれはここに、文についての永遠の理想をみることができよう。
しかし、このような完璧(かんぺき)さを求めることのできるのは、皇帝を中心とした貴族や文人たちに限られ、民衆の口にする話しことばは、先にみたように自然の変化にゆだねられていた。名詞の語末の子音の消失、あるいはhの音の消失(たとえばラテン語habēre「持つ」、イタリア語avere、フランス語avoir)などの現象は、民衆のラテン語がかなり早くから、その後裔(こうえい)であるロマンス諸語に現れる傾向をもっていたことを示している。キケロほどの人でも、友人への手紙のなかでは、日常の語彙を承知して使っている。たとえば、「よく」という副詞を、文語ではbeneという形を使うところを、bellus「よい」という形容詞からつくられたbelleを用いたり、ais-ne ?「ええ、本当?」という表現にainと詰めた形を使っている。古典期には二重母音のauはōと発音されていた。cauda「尾」については、現在のイタリア語のようにcōdaという発音が聞かれたことを、ウァローが指摘している。キケロですら、手紙のなかではauricula「耳」(フランス語oreille)に対してōriculaという形を使っている。後70年から9年間ローマを支配したウェスパシアヌス皇帝は、あるときM・フロールスFlōrusという高官に、plōstraはplaustra「荷車(複数)」というのが正しい、と注意された。そこで皇帝は、その翌日さっそく彼に向かってフラウルスFlaurusと呼びかけたという。この逸話は、のちに皇帝の伝記を書いたスウェートーニウスが伝えているものだが、これは、auからōへの変化が当時すでに宮廷にまで浸透していたことを物語っている。
このような音変化はラテン語の構造にいろいろの影響を及ぼしてくる。皇帝ネロの仲間で、その遊興の指南役でもあったペトロニウスは、その作品のなかで、奴隷に、vinum「酒」をvinus、caelum「空」をcaelus、cornu「角」をcornumと間違えていわせている。先の2例は、名詞の中性を男性に変えてしまった誤りであり、第三の例は、cornuという数少ないタイプの中性名詞を、より一般的なそれに変えてしまった形である。これは、名詞の性別の混同、変化のタイプの統一が民衆の間ではかなり進んでいたことを示唆している。この傾向はやがてロマンス諸語にみられる中性形の消滅につながる。それには、vinum→vinusのような男性形への移行のほかに、gaudium「喜び」→gaudia(複数)から、-aを語尾にもつ女性名詞に吸収されていく二つの道があった。
先にあげた古典期以前の碑文にみたように、古典ラテン語の-us, -umはしばしば-o(s), -oと表記されている。この傾向がその後も変わらずに口語のなかに生き続けると、dominus(主格)、dominum(対格)、dominō(与・奪格)の単数四格の区別があいまいにならざるをえない。-aを主格単数にもつ女性名詞にも、-ae(属格・与格)、-ā(奪格)、-am(対格)の格語尾を混同する危険はいっそう大きい。これは、一つの形が性・数・格の三つの文法的要素を担った屈折語タイプの崩壊につながるもので、不明瞭(めいりょう)になった格関係、語相互のつながりは、格語尾にかわって前置詞を用いることで補われることになる。つまり、dominōはde dominoに分析されるわけである。それと並行して、古典期には前置詞の格支配は一定していたのに、これが混乱してくる。そこで、post mortem「死後に」(postは対格支配)がpost morte(奪格)、inter amicōs「友人たちの間で」(interは対格支配)がinter amicīs(与・奪格)と混同されるなどの例が珍しくない。
音変化は動詞組織の一部をも崩す原因となった。ロマンス語全体から判断すると、未来形がもっとも不安定で、完全に消滅してしまった。それは、この時制は現在形と副詞で容易に補うことができるという心理的な理由もさることながら、主たる原因は、すべての動詞の未完了過去のマークである-ba-(amābat「彼は愛していた」)のbと、多くの動詞の完了形語幹を形成するv(amāvi「彼は愛した」)との間に混同が生じたことと、第3、4類の動詞における現在形と未来形の接近(dīcit―dīcet「彼は言う」)であろう。そのためにロマンス語は、不定法+have(cantare「歌う」+habeo>フランス語chanterai、イタリア語canteroなど)、あるいはwill+不定法(volō+cantare>ルーマニア語voi cinta)のような合成的表現によって新しい未来形をくふうしなければならなかった。この未来形と並んで消滅したのが、受動態の現在・未完了・未来、「愛する」amātur, amābātur, amābitur(三人称単数)である。これは語尾の弱まりによる能動形との接近が大きな要因であろう。これらの形の後退した穴は、のちになって、完了形の受動表現であったbe動詞sum+完了受動分詞、という合成表現がそのまま現在形に移行して埋められている。
ラテン語は比較的自由な語順をもっていた。しかし、それでも、動詞が文末にくるという傾向が強く、カエサルの『ガリア戦記』第2巻の調べでは、主文章で84%、副文章で94%の動詞が文末にたってくる。ところが、4世紀にエゲリアという名の女性が書いた聖地への巡礼記では、動詞が文末にくるのは、主文章ではわずか25%、副文章でも37%しかなく、動詞の位置が目的語よりさらに前にあがる傾向をみせている。これは、いうまでもなく、近代ロマンス諸語の語順への接近にほかならない。エゲリアは書きことばとしてラテン語で文章を綴っているが、話しことばの語順が自然に表れてしまったのであろう。
われわれが輝かしい文学を通して学ぶ古典ラテン語は、ギボンの英語にも、ニーチェのドイツ語にも、西欧の文章の至る所に生きている。同時に、文学作品の陰に隠れてローマ時代を生き続けた民衆のラテン語が、やがて土地土地のラテン語となって独立する。これこそ現代に直結するラテン語の生命である。
[風間喜代三]
『呉茂一著『ラテン語入門』(1952・岩波書店)』▽『呉茂一・泉木吉著『ラテン語小文典』(1957・岩波書店)』▽『村松正俊著『ラテン語四週間』(1961・大学書林)』▽『田中秀央編『羅和辞典』(1952・研究社出版)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
大学の教育言語として最も古く長い伝統を持つ。中世大学ではテキストも講義もラテン語であったため,その読み書き会話が勉学の必須条件であった。ヨーロッパ全域から学生を集めた中世大学の普遍性は,汎ヨーロッパ的言語であったラテン語によって支えられていた。そのため,ラテン語の文法学校が各地に隆盛した。人文主義の興隆とともに古代ギリシア語・ラテン語が人文的教養となり,教科としての古典語は,近代までヨーロッパの後期中等教育の根幹をなした。大学では古典的な法学,神学,医学が受け継がれていたし,ローマ教会はむろんのこと,法曹界,外交,行政組織もラテン語を使い続けたため,大学での教育言語として長く使用された。しかし,近代科学や外国語が大学の教育内容に取り込まれ,母国語の力が強まるにつれ,その地位は徐々に低下した。すでに16世紀から特定の講座で現地語を使用する例が散見されるが,18世紀には,トマジウスに代表されるように教授が個人的に母国語を使用し,フランスの学寮でも母国語が使用されはじめ,母国語を教育言語とするドイツ大学が次第に増加した。大学の教育言語の母国語化は,近代国民国家の統一的アイデンティティの形成に深く関連している。
著者: 児玉善仁
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
インド・ヨーロッパ語族に属し,もとイタリアのラティウムでラテン人の使用した言語。この言葉を使用した古代ローマ人(ラテン人の一派)が,地中海世界をおおう大帝国を建てたため西欧の共通語となった。中世には知識階級の公用語,今日ではカトリック教会の公用語および学術語として残る。イタリア語,スペイン語,フランス語,ルーマニア語はラテン語から転訛したもの。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ロマンス語に属する言語。その源は古代ローマ人の用いたラテン語にさかのぼる。
[分布と方言]
イタリア語はイタリア共和国(人口5744万)の公用語であり,またサンマリノ共和国,バチカン市国,スイスのティチノ州,コルシカ島,ユーゴスラビアのイストラ半島およびダルマツィア地方の一部でも話されている。…
…通常オスク・ウンブリア語群Osco‐Umbrianとラテン・ファリスキ語群Latin‐Faliscanとに大別される。いずれも前1千年紀のイタリアで行われていた言語であるが,後者に属するラテン語が,その話し手たるローマ人の台頭とともに勢力を伸ばし,他のイタリック諸語を消滅へと追いやった。オスク・ウンブリア語群はオスク語,ウンブリア語,その他の群小方言から成り立つ。…
… しかし印欧語族のなかには,歴史時代に分化をとげた言語がある。それはラテン語である。ラテン語はイタリック語派に属する一言語であったが,ローマ帝国の繁栄とともにまず周辺に話されていたエトルリア語やオスク・ウンブリア語などを吸収した。…
…8,9世紀ごろノーサンブリアおよびマーシアには学芸が興隆し,一時は全欧に冠たる地位を占めたが,たび重なる北欧の侵略者デーン人(バイキング)による僧院の略奪と破壊に遭い,これら方言による文献はおおかた失われた。後世に伝わるOEの文献はWSによるもので,これはアルフレッド大王(在位871‐899)が果敢な反撃によりデーン人から自領を守り,協定を結んで彼らとイングランド内に平和に共存する一方,自らラテン語の哲学・宗教書をWSに訳し,年代記を編ませるなど,宗教と学芸の興隆に意を用いたことによる。大陸時代以来の口碑,他方言による文学もWSで書きとどめられ,あるいは転写されて残った。…
…この原初イベリア語のなごりが,現在バスク地方で話されるバスク語であるともいわれる。このような原初イベリア語という言語的素地の上に,前3世紀末に始まるローマ人の侵入・植民によって口語のラテン語(口語のラテン語はその当時すでに文語のラテン語とは著しくかけはなれていた。ふつう前者を〈俗ラテン語〉,後者を〈古典ラテン語〉と呼んでいる)がかぶさることになる。…
…ドイツでは6世紀ころより,フランク族による諸部族の征服と統合が行われるが,8世紀中ごろ帝位についたカロリング朝のカール大帝は,最終的に征服し終えた諸部族をキリスト教の理念によって統一することを目ざした。そのために,彼は教会制度など種々の制度改革を行ったが,その一環として,聖職者がラテン語ではなく民衆の言葉で説教し教義を教えることを命じた。そこで,ラテン語で書かれたキリスト教文献の翻訳を主とした文学活動が各地の修道院を中心にして盛んになり,〈主の祈り〉〈信仰箇条〉〈受洗の誓い〉が各地でドイツ語に翻訳された。…
…母音変化には,(1)質の変化と,(2)量(長さ)の変化とがある。古典ラテン語には短母音/a,e,i,o,u/と長母音/ā,ē,ī,ō,ū/の計10個の母音があった。これらが俗ラテン語では/a,ɛ,e,i,o,ɔ,u/の七つに減少している。…
…ラテン語はもともと古代ラテン人の一地方言語であったが,ローマ人の政治支配によって広い通用力をもつことになった。しかし,自己の言語についての原理上,および教授法上の考察は,先進のギリシア文化の影響をうけて開始され,その際にはいわゆるアレクサンドリア学派の言語理論がモデルとなった。…
…ロマン語ともいう。古代ローマ帝国の共通語であったラテン語が長期間にわたって変化し,地域的な分化を遂げることによって,おそらく8世紀ころまでに形成された諸言語の総称。ロマンス語は今日ヨーロッパおよびアメリカ大陸を中心に,全世界で5億人にのぼるとも推定される人々の日常語として広く使用されている。…
※「ラテン語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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