丁汝昌(読み)ていじょしょう

精選版 日本国語大辞典 「丁汝昌」の意味・読み・例文・類語

てい‐じょしょう ‥ジョシャウ【丁汝昌】

中国、清末の軍人。英・仏・独に留学、清国海軍の近代化につとめた。のち北洋水師提督日清戦争の際、一八九五年(明治二八)日本連合艦隊黄海で会戦し敗れ、威海衛に封鎖され海陸からの攻撃降伏。その責を負い服毒自殺した。一八九五年没。

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デジタル大辞泉 「丁汝昌」の意味・読み・例文・類語

てい‐じょしょう〔‐ジヨシヤウ〕【丁汝昌】

[?~1895]中国、末の軍人。安徽あんき省の人。あざな禹廷うてい北洋艦隊の提督となったが、日清戦争黄海海戦で大敗。威海衛に封鎖されて降伏、自決した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「丁汝昌」の意味・わかりやすい解説

丁汝昌
ていじょしょう
Ding Ru-chang; Ting Ju-ch'ang

[生]道光16(1836)
[没]光緒21(1895).2.12.
中国,清末の海軍軍人安徽省廬江県の人。清国旧式海軍の長江水師に入り,劉銘伝に従って捻軍討伐に従事し,のちイギリスに派遣された。光緒8(1882)年壬午(じんご)の変(→京城事変)には艦隊を率いて朝鮮におもむき,大院君を連行した。のち天津総兵を経て,同 14年初代海軍提督となり,同 20年には尚書の資格をも与えられた。同年の日清戦争では,黄海海戦に敗れ,翌 21年威海衛の陥落後,日本に降伏,服毒自殺した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「丁汝昌」の意味・わかりやすい解説

丁汝昌
ていじょしょう
(1836―1895)

中国、清(しん)末の海軍提督。字(あざな)は禹廷(うてい)。安徽(あんき)省廬江(ろこう)県の人。長江水師の出身で捻(ねん)軍の鎮圧に参加し参将になる。李鴻章(りこうしょう)が海軍創設を図ると、1875年軍艦購入のためイギリスに派遣された。帰国後、海軍提督に就任し北洋艦隊を編成した。その後、示威のため、艦隊を率いて2回、日本を訪問。94年、日清(にっしん)戦争が起こると北洋艦隊を率いて黄海海戦を戦った。彼は戦闘の初期、旗艦艦橋から落ちて負傷したが、なお指揮を続けた。海戦後、李鴻章の命令により残存の艦隊をまとめて威海衛(いかいえい)に退守した。95年2月、日本軍の水陸からの攻撃を受け、力戦及ばず敗北した。こうして北洋艦隊は全滅したが、このとき彼は降伏を拒み、服毒自殺した。

[倉橋正直]

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百科事典マイペディア 「丁汝昌」の意味・わかりやすい解説

丁汝昌【ていじょしょう】

中国,清末の海軍提督。安徽省の人。淮軍に参加し捻軍平定活躍。のち英国に派遣され,帰国後北洋水師を率いて朝鮮の壬午軍乱清仏戦争に功があった。1888年新海軍創設にあたり提督となり,日清戦争に北洋艦隊を率い黄海・威海衛海戦に敗北し,自殺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「丁汝昌」の解説

丁汝昌 てい-じょしょう

1836-1895 清(しん)(中国)の軍人。
道光16年10月10日生まれ。1888年北洋艦隊の提督となる。日清戦争で黄海海戦などに敗れ,光緒21年1月18日(1895年2月12日)威海衛で兵員の助命を条件に降伏書を提出し,同日敗戦の責任をとって服毒自殺した。60歳。安徽(あんき)省出身。

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世界大百科事典(旧版)内の丁汝昌の言及

【威海】より

…1887年(光緒13)には北洋海軍の基地となり,劉公島には提督署が置かれた。日清戦争に際しては提督丁汝昌に率いられる精鋭艦隊が集結していたが,日本海軍の攻撃に敗れ,戦役の方向を決めた。戦役後,日本が占領していたが,そののちイギリスが租借して西洋式都市とし,東洋艦隊の基地とした。…

※「丁汝昌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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