ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黄海海戦」の意味・わかりやすい解説
黄海海戦
こうかいかいせん
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(1)1894年9月17日,日清戦争のときに黄海北部で起こった海戦。速力と速射砲数で勝る日本艦隊(14隻,約4万トン)は清国北洋艦隊(18隻,約3万5000トン)を破り5隻を失わせ,日本は1隻も失わなかった。これで日本は黄海の制海権をえて戦勝の基を開いた。世界最初の甲鉄汽走艦隊の決戦で,後の近代的海軍用兵への端緒をなした。(2)1904年8月10日,日露戦争中に旅順のロシア東洋艦隊がウラジオストクに脱出しようとするのを日本の連合艦隊が迎え撃って撃破し,ロシア艦隊は再び旅順港へ逃げ込んだ。一般に黄海海戦という場合,(1)が有名であり,これと区別するため(2)を八月十日の海戦ともいう。
執筆者:栂 博
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(1)日清(にっしん)戦争中の1894年(明治27)9月17日、黄海(こうかい)の北端、長山列島近海で、日本連合艦隊と清国北洋艦隊が戦った海戦。清国側は軍艦「超勇」以下5隻を失い、日本はこの海戦を機に制海権を掌握した。ほぼ同時に行われた平壌の戦いとともに、日清戦争の勝敗を分けた戦いであった。
(2)日露戦争中の1904年(明治37)8月10日、ウラジオストクの艦隊と合流しようとして旅順港から脱出したロシア艦隊と、それを阻止しようとした日本艦隊との間で戦われた海戦。日本艦隊は遠くまでロシア艦隊を誘出、交戦数時間に及んだが、旗艦(きかん)が撃破されたのを機に、ロシア艦隊主力はふたたび旅順港に逃れた。以後出撃することなく、制海権を日本が完全に握ることになった。
[中塚 明]
1日清戦争における最大の海戦。1894年(明治27)9月17日,伊東祐亨(すけゆき)中将の日本連合艦隊12隻と丁汝昌(ていじょしょう)提督の清国北洋艦隊12隻とが交戦した。北洋艦隊は5隻を撃沈され,巨艦定遠・鎮遠も大破。日本は大破2隻のほかは被害軽微。黄海の制海権を日本が掌握し,平壌攻略とともに日清戦争の帰趨を決定づけた。
2日露戦争における海戦。1904年(明治37)8月10日,旅順を脱出してウラジオストクの艦隊と合同しようとするロシア太平洋艦隊に対し,東郷平八郎大将の日本連合艦隊主力がこれを阻止しようとした。ロシア艦隊は数隻を撃破され,旅順に退去して以後再び出撃しなかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…9月15日大本営は天皇親率のもと広島に進出し,国民に長期戦の決意を示した。翌16日の平壌攻略により全朝鮮を制圧し,17日の世界最初の汽走艦隊の海戦である黄海海戦に勝利して黄海の制海権を握ると,大本営は中国本土に侵入を指示し,戦争は中国分割戦争に転じた。天皇は開戦から復員まで87回にわたり大本営御前会議を催し,終始積極的に戦争を指導した。…
※「黄海海戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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