出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…なかで,遊女屋が経営する歌舞伎の座を遊女歌舞伎と呼ぶ。京では六条三筋(みすじ)町の遊女屋が四条河原で,江戸では吉原の開設当初は吉原の中に,のちには中橋でそれぞれ舞台を設け,男装したスター級の遊女である太夫(和尚とも呼んだ)の歌や踊りを中心に競って歌舞伎を興行した。お国歌舞伎との第一の違いは,当時最新の楽器である三味線をスターが弾いていることで,50~60人もの遊女を舞台へ登場させ,虎や豹の毛皮を使うなど,いっそう豪奢な舞台ぶりに,数万人もの見物を集めたという。…
…京都盆地への流出口にあたる上賀茂の柊野(ひいらぎの)から南へ扇状地をつくり,河水の多くは伏流して京都市街の井戸の水源となっている。鴨河原はみそぎ祓(はらい)の神事や合戦場,処刑場として著名であるが,中世末から近世にかけては庶民の集まる広場となり,芝居・見世物小屋が並ぶ歓楽街が四条河原,五条河原に形成された。この河川は古代から木材,薪炭などの輸送に利用されていたが,平時は水量が少ないため慶長年間(1596‐1615)西岸の二条通り南の一之船入以南に高瀬川が掘削され,明治前期まで水運に利用された。…
…福岡,新見や近江の船木北浜などはみなそうした都市である。また京の鴨川の河原でも,1349年(正平4∥貞和5)の四条河原での橋勧進猿楽の興行のように,室町期にかけて,さかんに芸能が行われた。そこが冥府,地獄との接点と考えられたことにより,鎮魂の意味を持つ芸能の場になったといわれている。…
…糺森(ただすのもり)も京都人の納涼の地だったのである。 江戸時代になると,京都の四条河原の納涼と,江戸の隅田川の涼み船とが納涼の好話題となる。江戸時代半ばころから,賀茂川の四条河原では流れの上に一面に腰掛けが設けられ,ここで足を水に浸して涼をとったが,それは旧暦の6月7日の夜から18日夜までおこなわれたという。…
※「四条河原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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