四条河原(読み)シジョウガワラ

デジタル大辞泉 「四条河原」の意味・読み・例文・類語

しじょう‐がわら〔シデウがはら〕【四条河原】

京都四条大橋付近の賀茂川河原江戸時代芝居小屋茶屋でにぎわった。

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日本歴史地名大系 「四条河原」の解説

四条河原
しじようがわら

[現在地名]東山区中之なかの町・川端かわばた町・宮川筋みやかわすじ〈一町目―五町目〉

鴨川四条通が交わる辺りの地域を称し、江戸時代の一行政区。鴨川によって東西に二分され、東岸の現東山区の区域の南北は四条大橋東詰より松原通の間、東は建仁寺門前けんにんじもんぜんの諸町と隣接した。

石高は元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に、「一、高百七拾七石六斗二升、四条河原代」とあり、以後明治まで変わらないが、これは東西両岸を含む数字で、そのうち東岸部がどれほどかはわからない。

寛文(一六六一―七三)期に東岸に「寛文の新堰」が築かれて芝居街が西岸より東岸に移り、一挙に賑いをました。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「四条河原」の意味・わかりやすい解説

四条河原
しじょうかわら

京都市街を流れる鴨(かも)川に架かる四条大橋付近の河原をいう。中世のころから田楽(でんがく)、猿楽(さるがく)などの興行が行われ、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に阿国歌舞伎(おくにかぶき)が演じられた。江戸幕府が京都で芝居興行を許可した唯一の地で、祇園八坂(ぎおんやさか)神社の門前にもあたり、茶店もできてにぎわった。近世中ごろから芝居小屋は減少し、現在、南座があるのみである。いまも残る納涼川床は江戸中期に始まった。京阪電気鉄道京阪本線の祇園四条駅があり、阪急電鉄京都線の京都河原町駅も近く、交通の便もよい。

織田武雄


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世界大百科事典(旧版)内の四条河原の言及

【女歌舞伎】より

…なかで,遊女屋が経営する歌舞伎の座を遊女歌舞伎と呼ぶ。京では六条三筋(みすじ)町の遊女屋が四条河原で,江戸では吉原の開設当初は吉原の中に,のちには中橋でそれぞれ舞台を設け,男装したスター級の遊女である太夫(和尚とも呼んだ)の歌や踊りを中心に競って歌舞伎を興行した。お国歌舞伎との第一の違いは,当時最新の楽器である三味線をスターが弾いていることで,50~60人もの遊女を舞台へ登場させ,虎や豹の毛皮を使うなど,いっそう豪奢な舞台ぶりに,数万人もの見物を集めたという。…

【賀茂川∥鴨川】より

…京都盆地への流出口にあたる上賀茂の柊野(ひいらぎの)から南へ扇状地をつくり,河水の多くは伏流して京都市街の井戸の水源となっている。鴨河原はみそぎ祓(はらい)の神事や合戦場,処刑場として著名であるが,中世末から近世にかけては庶民の集まる広場となり,芝居・見世物小屋が並ぶ歓楽街が四条河原,五条河原に形成された。この河川は古代から木材,薪炭などの輸送に利用されていたが,平時は水量が少ないため慶長年間(1596‐1615)西岸の二条通り南の一之船入以南に高瀬川が掘削され,明治前期まで水運に利用された。…

【河原】より

…福岡,新見や近江の船木北浜などはみなそうした都市である。また京の鴨川の河原でも,1349年(正平4∥貞和5)の四条河原での橋勧進猿楽の興行のように,室町期にかけて,さかんに芸能が行われた。そこが冥府,地獄との接点と考えられたことにより,鎮魂の意味を持つ芸能の場になったといわれている。…

【納涼】より

糺森(ただすのもり)も京都人の納涼の地だったのである。 江戸時代になると,京都の四条河原の納涼と,江戸の隅田川の涼み船とが納涼の好話題となる。江戸時代半ばころから,賀茂川の四条河原では流れの上に一面に腰掛けが設けられ,ここで足を水に浸して涼をとったが,それは旧暦の6月7日の夜から18日夜までおこなわれたという。…

※「四条河原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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