日本大百科全書(ニッポニカ) 「大島貞益」の意味・わかりやすい解説
大島貞益
おおしまさだます
(1845―1914)
明治時代の経済学者。とくに犬養毅(いぬかいつよし)とともに保護貿易論者の双璧(そうへき)として有名。弘化(こうか)2年2月27日但馬(たじま)国養父(やぶ)郡大藪(おおやぶ)村(現兵庫県養父市)に生まれる。初め郷里で漢学を、のち江戸に出て箕作麟祥(みつくりりんしょう)に英学を学んだ。1868年(慶応4)7月新政府に仕え、翻訳の業務に従事したが、78年(明治11)官を辞し、84年から87年まで群馬県立前橋中学校校長を務めた。以後野にあって、病身をいたわりつつ、大正3年10月19日に没するまでもっぱら著述と翻訳に従った。彼の翻訳書は、政治、法律、経済に限らず、宗教、歴史、地理、伝記、技術などにまで及んでいるが、経済関係ではとくに『馬爾斯(マルサス)人口論要略』(1877)、『日奔斯(ゼボンス)著貨幣説』(1883)、『李氏(リスト)経済論』(1889)があげられる。最後のリストの経済論は『Das nationale System der politischen Ökonomie』(1841)(『経済学の国民的体系』)の英訳からの重訳である。主著に『情勢論』(1891)、『経済纂論(さんろん)』(1900)などがある。堀経夫(つねお)は、前者を「いわば自由主義の本陣に斬(き)り込んだ保護主義の鋭い太刀(たち)である」と評したが、当時の日本としては国内産業育成のため保護貿易を必要とする理由が明らかにされている。彼は、この主張を実現するために富田鉄之助らと国家経済会をつくり、その幹事役も務めた。後者の内容は実質的に経済原論である。
[多田 顯]
『『本庄栄治郎著作集2 日本経済思想史』(1971・清文堂出版)』▽『堀経夫著『明治経済思想史』(1975・明治文献)』