[大日方純夫]
王政復古後の1868年(慶応4)1月13日、太政官代が置かれ三職(さんしょく)七科の制が発足(ほどなく三職八局の制に変更)。ついで閏(うるう)4月21日、政体書を発布して立法・行政・司法の三権に分け、議政官(ぎせいかん)以下の七官を置き、これらの中央官庁を太政官と総称した(特別の官庁があったのではない)。しかし、三権分立の実はなく、行政を担当する五官(行政・神祇(じんぎ)・会計・軍務・外国)の首位にあった行政官が、国政の決定・執行の中枢機関であった。版籍(はんせき)奉還後の1869年(明治2)7月8日、官制改革により民部以下の六省を管轄する官庁として太政官が置かれ、ここに機構上、太政官制が成立する。しかし、この改革は律令(りつりょう)的太政官制に基づく復古的なもので、三権分立制は消え、太政官の上に神祇官が置かれた。廃藩置県後の1871年7月29日、天皇が親臨して万機(ばんき)を総判する正院(せいいん)、各省の長・次官が会合して行政事務を審議する右院、議院・諸立法の事を議する左院が置かれて太政官三院制が成立。そのもとに外務以下の八省が設置され、中央集権国家の最高機関として、太政官は確立された。三院の中心は正院にあり、天皇を輔弼(ほひつ)する最高責任者の太政大臣以下、納言(なごん)(8月10日、左・右大臣と改称)、参議などがこれを構成した。
[大日方純夫]
1873年(明治6)5月2日、強大な大蔵省の権限を抑え、正院の権限を拡大するために改革が行われ、正院には参議を議官とする内閣が設置されて、立法・行政をはじめとする国政の中枢機関となった。これに伴って、右院は臨時に開く機関にかえられた。ついでこの年10月の征韓論をめぐる政変後から、参議と各省の卿(きょう)(長官)の兼任制が確立してゆき、参議の権限はしだいに強大となった。1875年4月14日、漸次に立憲政体をたてるとの詔書が発せられたのに対応して、太政官制にも大改革が加えられ、左右両院は廃止。正院のもとに元老院(げんろういん)と大審院(だいしんいん)が設置された。1877年1月18日、地租軽減・政費節減の実施に伴う機構改革の一環として、正院の称は廃止され、名実ともに内閣が中枢機関となった。1880年2月28日、参議への権限集中に対する批判の高まりに対して、いったん参議と省卿の分離を図ったが、「明治十四年の政変」後の1881年10月21日、兼任を復活。同時に、法律規則の制定、審査にあずかる参事院を置いた。1885年12月22日、太政官達第69号をもって太政官制は廃止。同日発足の内閣制がこれにかわった。
[大日方純夫]
太政官制は、幕藩体制を解体した新政権が、律令古制への復帰を標榜(ひょうぼう)しつつ、全国統治を目ざして創出した中央権力機構である。当初、神祇関係機構の位置づけをめぐって混乱はあったものの、改革・整備は、太政官に強大な権限を集中する方向で進められた。しかし、天皇輔弼の責任が大臣に限られ、国政の実質的運営にあたる参議はこの責任にあずからなかったこと、国政の審議決定にあたる大臣・参議と、これを執行する諸省の長官とは権限を区別され、前者が上位に置かれていたこと、などの制度的特質からしばしば問題が引き起こされた。内閣制への移行によって、国務大臣と各省長官との重複制が成立し、輔弼と執行との一体化が図られていく。
[大日方純夫]
『鈴木安蔵著『太政官制と内閣制』(1944・昭和刊行会)』▽『福島正夫編『日本近代法体制の形成 上巻』(1981・日本評論社)』
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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