平安時代弘仁期の漢詩人,歌人。遣隋使妹子の玄孫。父は征夷副将軍永見。陸奥守,のち参議大宰大弐。嵯峨朝の宮廷詩人であるが,〈東国征戍辺愁〉の吟や坂上田村麻呂をいたんだ作に力強い佳作がある。空海と相許した詩友で,〈白雲の人,天辺の吏,何れの日か念(おも)うことなからん〉という詩(《性霊集》一)を贈られ,自分も帰休間遊の際に,〈言を寄す陵藪の客,大隠は朝市に隠るるものを〉(《経国集》十)と詠んで贈った。延暦以来の23人の詩を集め《凌雲集(りよううんしゆう)》を撰して序を書き(814),儀典行事の新式を定め《内裏式》を撰して序を作った(821)。民衆の凶作に苦しむのを見て貯穀を上表し(823),九州の旅路に続命院を建てて旅人の困苦を救おうとして解状(げじよう)をさし出した(天長年間)。単なる優雅な文人にとどまらず,その儒教的ヒューマニズムと古代戦士的な風格はその子篁(たかむら)にもうけつがれている。
執筆者:川口 久雄
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平安前期の漢詩人。征夷(せいい)副将軍永見(ながみ)の三男。篁(たかむら)の父。806年(大同1)春宮少進(とうぐうしょうじ)となり、少外記(しょうげき)、式部少輔(しょうゆう)などを経て、近江(おうみ)、美濃(みの)、陸奥(むつ)、阿波(あわ)、大宰大弐(だざいのだいに)など地方官を歴任した。大宰府管内の農民の疲弊を救うため公営田の耕作を認めるよう建議した大宰大弐時代の業績にみえるように、行政的手腕にたけた実務的な能吏であった。文学的な業績としては『凌雲集(りょううんしゅう)』の編者の一人として序を起草し、同集に13首、『文華秀麗集』に8首、『経国集(けいこくしゅう)』に9首採録されていることと、晩年に『日本後紀(こうき)』の編纂(へんさん)に参画したことがあげられる。その作品には嵯峨(さが)天皇の詩に韻をあわせたもの、天皇の命によって詠進した詩が多く、表現には中国六朝(りくちょう)詩の影響をうかがえる。
[金原 理]
(瀧浪貞子)
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778~830.4.19
平安初期の公卿・文人。父は永見(ながみ)。子に篁(たかむら)がいる。810年(弘仁元)嵯峨天皇の即位時に侍読(じとう)として特進し,内蔵頭・皇后宮大夫などを歴任し,参議に至る。823年大宰大弐(だいに)として赴任中,管内に公営田(くえいでん)を設置すること,行旅のための救済に続命院(ぞくみょういん)を設けることなどを申請。多禰島(たねがしま)を大隅国に合併した。「凌雲集(りょううんしゅう)」の撰進,「日本後紀」「内裏式」の編集に参画し,「文華秀麗集」「経国集」に漢詩を収める。
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…書名は〈雲を凌(しの)ぐ〉ほど優れた詩集の意。小野岑守(みねもり)が嵯峨天皇の勅命を奉じ菅原清公(きよきみ)らと慎重に協議して編集したことが序文にみえる。作者23名,詩数90首,現存本にはさらに1名1首が加わる。…
※「小野岑守」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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