蘭学(らんがく)者、日本の化学の先駆者。摂津国(兵庫県)三田(さんだ)藩医川本周安の三男。名は裕、幼名敬蔵、通称周民のちに幸民、号は裕軒。1829年(文政12)藩命により江戸の蘭医足立長雋(ちょうしゅん)に学び、翌1830年坪井信道(しんどう)に入門して蘭語を修めた。1833年(天保4)藩医に任ぜられて江戸に住まい、1835年青地林宗の三女秀子と結婚。1836年刃傷(にんじょう)らしき事件のため藩邸に幽閉されたのち浦賀に蟄居(ちっきょ)したが、1841年江戸に戻り、医業と蘭学研究を続けた。1851年(嘉永4)から1856年(安政3)にかけて『気海観瀾広義(きかいかんらんこうぎ)』15巻を翻訳刊行し、岳父林宗の『気海観瀾』(1827)を大幅に増補して、天文、物性、化学、熱、電気、光などの物理現象を解説した。また1856年ころ『兵家須読舎密(せいみ)真源』訳稿を完成。これは砲術家のための実践的化学書であるが、原子論に立脚して定量的化学の基礎を述べたものである。また化学薬品の製造やマッチ、銀板写真、ビール、電信機の試作など実際的活動をも手がけ、薩摩(さつま)藩主島津斉彬(なりあきら)の知遇を得た。1856年蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝となり、1859年教授職、1860年(万延1)精煉方(せいれんかた)設置とともにその中心人物となった。この間、初めて書名に化学の名を用いた『化学新書』を訳述し(1861年完稿)、漢字の元素記号を用いて化学反応式を記した。1868年三田へ帰り、嗣子(しし)清一とともに蘭学と英学の塾を開いたが、1870年東京へ移り翌明治4年62歳で死去した。幸民の訳著書によって幕末期に原子論的化学の体系的学習が可能となったことの意義は大きい。
[内田正夫]
『日本学士院編『明治前日本物理化学史』(1964・日本学術振興会)』▽『川本裕司・中谷一正著『川本幸民伝』(1971・共立出版)』
(菅原国香)
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幕末期の蘭学者で日本の物理学,化学の基礎を築いた博学者.文化7年生まれ(月日不明),明治4年6月1日没.摂津国三田藩(兵庫県三田市)の藩医川本周安の末子.号は裕軒.藩校の造士館で漢学を学んだ後,19歳で江戸に出て蘭医の足立長雋,坪井信道のもとで蘭学・蘭医を習得し,1835年江戸で医を開業,青地林宗の三女と結婚.同年刃傷事件に連座し7年間のちっ居生活後,西洋科学技術の優位性を再認識し,それらの蘭書を翻訳し,物理学,化学の導入を推進した.幕末期には幕府の蕃書調所の教授として化学教育の中心的存在であった.訳書「気海観瀾広義」(1851~1856年)で物性,運動,光,電気などを概説し,日本の物理学成立に貢献した.「遠西奇器述」(1854年)で写真,電気めっき術などの技術を解説した.1856年「兵家須読舎密真源」,1860年には中国起源の“化学”をはじめて書名に採用した「化学新書」で原子論,化学の基本法則などを紹介し,より近代的化学内容を導入した.化学薬品の製造,マッチ,ビール,銀板写真などの試作も行っている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
幕末の蘭者。摂津三田藩医川本周安の三男。名は裕,字は幸民,号は裕軒。1829年(文政12)江戸に出て坪井信道らに蘭学を学ぶ。34年(天保5)藩医,翌年江戸で開業。56年(安政3)幕府の蕃書調所教授手伝,59年教授,62年(文久2)幕臣に列し,明治維新で辞官した。《気海観瀾広義》《遠西奇器述》《化学新書》等を著し,マッチ,ビール,銀板写真を試作するなど,西洋理化学の研究・紹介に尽くした。妻秀子は青地林宗の三女。
執筆者:有坂 隆道
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…化学の体系的な紹介は宇田川榕菴による《舎密開宗》(これはラボアジエの体系に基づく)の刊行(1837‐46)である。化学の系統的な教育は50年代の後半,蕃書調所において川本幸民を教授として始められた。このころから舎密は化学と呼ばれるようになった。…
…其の至微至細の極,復(また)析つ可からざるに至りて,而る後に一極微と為す〉とある。 23年後の1850年(嘉永3),川本幸民(林宗の三女秀子を妻とす)は,《気海観瀾》を増補し,漢文でなく国語(仮名交り文)で《気海観瀾広義》5編15巻を書き,51年から58年(安政5)にかけて順次出版した。〈凡例〉の冒頭に〈`ヒシカ’ハ和蘭ニコレヲ`ナチュールキュンデ’ト云ヒ。…
…そこでこれに対処するため洋学校の設立を図り,55年(安政2)に古賀増を洋学所頭取に任命し,翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称,九段坂下の旗本屋敷を改修して校舎にあて,同年7月に開所,翌57年1月から開講した。教官の陣容は教授職2名で,箕作阮甫(みつくりげんぽ)(津山藩医)と杉田成卿が任命され,教授手伝に川本幸民(三田藩医),高畠五郎(徳島藩医),松木弘安(薩摩藩医)ら6名,ほかに句読教授3名が任命されたが,その後逐次補充増員されて幕末に及んだ。教官ははじめ陪臣が大部分であったから,彼らはいつ主家から呼び戻されるかわからず,そこで幕府は主要な洋学者を直参に登用することにし,62年(文久2)に箕作阮甫と川本幸民を直参に取り立てたのをはじめ次々と直参に登用している。…
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【ビールと日本人との出会い】
日本人とビールの出会いとして記録に残っている最初のものは,1724年(享保9)の《和蘭問答》で〈麦酒たべみ候処,殊の他悪敷物にて……,名をびいると申候〉とある。幕末の蘭医川本幸民(1810‐71)は訳書《化学新書》の中でビールの製法を正確に記載しており,同人が日本で初めてビールを試醸したと伝えられるが確かではない。福沢諭吉は1865年(慶応1)《西洋衣食住》の中で〈又ビイルという酒あり,是は麦酒にて,其味至って苦けれど胸襟を開くに妙なり〉と述べている。…
※「川本幸民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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