日本大百科全書(ニッポニカ) 「川添登」の意味・わかりやすい解説
川添登
かわぞえのぼる
(1926―2015)
評論家。東京に生まれる。1953年(昭和28)に早稲田(わせだ)大学第二理工学部建築学科を卒業し、新建築社に入社。『新建築』誌の編集長として丹下健三(たんげけんぞう)を前面に押し立て、まだ無名であった白井晟一(せいいち)の作品を取り上げるなど、意欲的な誌面づくりを行う。とくに話題をよんだのが、1955~1956年に展開された「伝統論争」である。近代建築と伝統の関係を扱った丹下の論文を二度にわたって掲載し、「日本建築の進路――伝統をどう克服するか」と題してシンポジウムを企画。編集長自らが岩田知夫のペンネームで丹下論、白井論を著し、「弥生」の伝統に対する「縄文的なるもの」を白井に論じさせた。1955年には日本初の英文建築雑誌として『THE JAPAN ARCHITECT』(『新建築』国際版)を創刊するなど、『新建築』が第二次世界大戦後の代表的な建築雑誌となる基盤を確立した。
1957年に編集方針をめぐる対立から、編集部全員とともに退社し、本格的な評論活動に入る。旺盛(おうせい)に執筆を続けるかたわら、1960年に日本で開かれることとなった世界デザイン会議の事務局長の浅田孝(あさだたかし)(1921―1990)のもとで、1958年からその準備に携わり、建築家の大高正人(おおたかまさと)、菊竹清訓(きくたけきよのり)、黒川紀章(きしょう)、槇文彦(まきふみひこ)、デザイナーの粟津潔(あわづきよし)(1929―2009)、栄久庵憲司(えくあんけんじ)(1929―2015)をメンバーとする「メタボリズム・グループ」の結成に大きな役割を果たした。川添は若手建築家との交流のなかから生まれた考えを方向づけ、「メタボリズム」という名称を決定。会場で配られた『METABOLISM/1960』(1960)の編集を通して、グループとしての形を与えた。
この時期における代表的な建築評論に『建築の滅亡』(1960)がある。現代社会においては、永続的なシンボルとしての建築は過去のものになったとし、来るべき「第二建設時代」の建築は、長期にわたって存在する巨大構造体に、比較的早くかわる構造体が取りつけられ、それにもっとも早くかわる個々の部品化された建築物が取りつけられると論じて、メタボリズム概念の正当性を説いた。同時期の『民と神のすまい』(1960)では古代建築の意味を考察し、毎日出版文化賞を受賞した。建築に対する文明論的な関心において、この二つの著書はつながっている。
1960年代に入ると、その執筆活動は建築ジャーナリズムの枠を越え、それに伴って梅棹忠夫(うめさおただお)、社会学者の加藤秀俊(ひでとし)(1930―2023)ら文化人との親交が深まる。3人はともに日本万国博覧会のテーマ委員会メンバーとなり、1968年には日本未来学会を結成。博覧会終了後、その人脈を生かし、1970年に加藤らとシンクタンクCDI(コミュニケーションデザイン研究所)を設立。同研究所は黒川紀章設計の国立民族学博物館(吹田(すいた)市)をはじめとした文化施設関連の調査、文化振興計画の立案などを受託し、文化行政の波にのって発展する。万博でつくられた人脈から1970年のトータルメディア開発研究所開設や、1982年に結成された日本展示学会にもかかわった。
1971年に『今和次郎(こんわじろう)集』が刊行されたのを契機として、今和次郎を会長に日本生活学会を設立。理事長、会長を歴任し、『生活学の提唱』(1982)などの著作を通じて、建築を含む多くの領域を人間生活を中心に学際的に融合する学問として「生活学」の体系化を図り、また評伝『今和次郎』(1987)を著した。
その後身近な生活や都市を多く論じるようになる。なかでも『東京の原風景』(1979)は、過去の東京の姿を豊かに描き出して、1980年代に活性化する江戸東京論の先がけとなった。
[倉方俊輔]
『『建築の滅亡』(1960・現代思潮社)』▽『『川添登評論集』全5巻(1976・産業能率短期大学出版部)』▽『『生活学の提唱』(1982・ドメス出版)』▽『『今和次郎――その考現学』(1987・リブロポート)』▽『『思い出の記』(1996・ドメス出版)』▽『『民と神のすまい――大いなる古代日本』(カッパ・ブックス)』▽『『東京の原風景』(ちくま学芸文庫)』▽『八束はじめ・吉松秀樹著『メタボリズム 一九六○年代――日本の建築アヴァンギャルド』(1997・INAX出版)』