幕末の剣術家。名は善道、晩年篤信斎(とくしんさい)と号した。越中(えっちゅう)国(富山県)の農家の生まれ。1812年(文化9)志をたてて江戸に出、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となり、15年神道無念(しんとうむねん)流岡田十松吉利(よしとし)の撃剣館に入門し、初めて剣術を学んだ。弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕(りょうが)して、代稽古(だいげいこ)を勤め、20年(文政3)師の没後は、嗣子(しし)利章を補佐して道場の経営にあたった。この間、儒学、馬術、兵学を学び、のちに砲術も学んだ。同門の江川邦二郎(くにじろう)(太郎左衛門英龍(ひでたつ))と親交を結び、その援助により、26年、独立して九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし、38年(天保9)三番町に移した。このころから剣名はいちだんと高まり、全国から入門者が集まった。また西洋銃隊調練や品川台場の築造、あるいは尊攘(そんじょう)問題に献策するなど、幅広い活躍を示した。維新後、老躯(ろうく)を押して新政府に出仕し、会計官権(ごん)判事となり、大坂に在職した。
[渡邉一郎]
神道無念流の剣客。名は善道(よしみち),字は忠郷。千葉周作の〈玄武館〉,桃井(もものい)春蔵の〈士学館〉とともに,幕末江戸三大道場の一つとして有名な〈練兵館〉の主。越中国氷見郡仏生寺村の出身。15歳のころ江戸に出て,神田猿楽町の岡田十松(じゆうまつ)吉利の〈撃剣館〉に入門,心技ともに進歩著しく,1820年(文政3)岡田十松没後,師範代となり道場経営にあたった。26年29歳のとき九段下俎板(まないた)橋畔に〈練兵館〉を開き独立した。文武兼備の弥九郎の門下には高杉晋作,桂小五郎,品川弥二郎など人材が輩出した。58年(安政5)長男新太郎に2代目弥九郎を襲名させ,みずからは篤信斎と号して隠居した。
執筆者:中林 信二
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(藤堂良明)
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