新沢千塚古墳群(読み)しんざわせんづかこふんぐん

日本歴史地名大系 「新沢千塚古墳群」の解説

新沢千塚古墳群
しんざわせんづかこふんぐん

[現在地名]橿原市川西町・北越智町・一町・鳥屋町

貝吹かいぶき(二一〇・三メートル)北・西麓の約六〇〇基に及ぶ古墳群。旧新沢村内にあるので新沢千塚といい、また所在地により川西かわにし千塚ともよばれている。新沢一町しんざわかずちよう遺跡や忌部山いんべやま遺跡に近接する古墳群として、早くから注目されてきた。

ほとんどの古墳は直径一〇―三〇メートルの円墳前方後円墳・方墳・長方墳なども存在。昭和三七年(一九六二)から四一年まで一二〇余基が発掘調査された。調査された古墳の大多数は、土壙のなかに木棺を直葬したもので、木棺内に須恵器刀剣鉄鏃・刀子などを副葬し、なかには鏡・甲冑馬具・工具などをもつものもあって、ほとんどは五世紀から六世紀にかけての築造とみられる。

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国指定史跡ガイド 「新沢千塚古墳群」の解説

にいざわせんづかこふんぐん【新沢千塚古墳群】


奈良県橿原市北越智町・川西町にある古墳群。越智岡丘陵の西北部、県道戸毛久米線の南北両側にみられる丘陵上に所在する。約600基からなる古墳群は、川西千塚とも呼ばれ、1976年(昭和51)に国の史跡に指定された。古墳群のうち大部分は径が10~30mの円墳だが、9基の前方後円墳、1基の前方後方墳、12基の方(長方)墳を含み、その多様な墳形の存在が特色となっている。内部施設は、大多数が木棺直葬だが、粘土槨(かく)、礫槨(れきかく)、横穴式石室をもつものも確認されている。古墳の大部分は古墳時代の中期末から後期に属するものが多く、若干、前期に含めうるものもある。また外見上、小古墳とみられた第126号古墳では、漆盤、銅製柄付皿、鏡、玉、龍文唐草透彫方形金板、銀製空玉、垂下式金製耳飾り、ガラス皿、ガラス壺、金製指輪や帯金具など、大陸的な色彩の強い副葬品出土。奈良県下における最大級の古墳群で、その内容、構造ともに重要な歴史的意味をもつ。近畿日本鉄道橿原線ほか橿原神宮前駅から徒歩約25分。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新沢千塚古墳群」の解説

新沢千塚古墳群
にいざわせんづかこふんぐん

奈良県橿原市南部の北越智から川西にかけての丘陵上に分布する古墳前~後期の群集墳東西・南北とも2kmの範囲にわたり,約600基の古墳がある。このうち500号墳は前期の粘土槨で,双枝をもつ特異な鏡を出土。109号墳には画文帯神獣鏡,垂飾付耳飾,各種の武具・刀剣があった。126号墳は長さ3.1mの割竹形木棺から竜文透彫の金製方形板と,金製垂飾付耳飾,金線をコイル状にした髪飾,各種玉類,金・銀の腕輪,金・銀の指輪などの装身具のほか,ガラスの碗と皿を出土。皿は濃紺色で鳥・樹木・馬・人物などを金彩で描き,ガラス碗とともにペルシャ地方方面からの将来品とみられる。青銅の熨斗(ひのし)とあわせて大陸の多数の文物をもつ被葬者として注目される。国史跡。

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百科事典マイペディア 「新沢千塚古墳群」の意味・わかりやすい解説

新沢千塚古墳群【にいざわせんづかこふんぐん】

奈良県橿原市の古墳群。約600基からなる。4世紀末の前方後円墳を最古とするが,多くは5世紀後半―6世紀前半の円墳からなる。国史跡。1962年―1966年に調査が行われた。そのうち126号墳と呼ばれる方墳からは,朝鮮半島や中国北方遊牧民に類例をもつ金製装身具,ローマ・ガラスの皿,碗,玉など国際性豊かな遺物が出土した。百済の渡来人東漢氏(やまとのあやうじ)の墳墓群とする説がある。

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