戦国末期の武将で姫路藩初代藩主。永禄(えいろく)7年11月晦日(みそか)、尾張(おわり)国(愛知県)清洲(きよす)城で生まれる。父は信輝(のぶてる)、母は荒尾善次の娘(法号善応院)。幼名は古新(こしん)、のち三左衛門といった。1580年(天正8)摂津花熊(はなくま)合戦で初陣の功をたてて尼崎(あまがさき)城主、1584年父信輝、兄之助(ゆきすけ)の討ち死に(長久手(ながくて)の戦い)により家督(かとく)を相続して大垣城主。やがて豊臣(とよとみ)秀吉の命で羽柴(はしば)氏を称し、1590年三河吉田(豊橋)城主で15万2000石を領し侍従となる。中川清秀の娘糸子をめとったが、94年(文禄3)家康の次女督姫(とくひめ)富子(法号良正院)を継室(けいしつ)に迎えた。関ヶ原の戦いでは家康に味方し、その戦功で播磨(はりま)(兵庫県)52万石を領し池田氏に復す。姫路城を大改築し、藩政の基礎を固め、「西国の将軍」とうたわれた。慶長(けいちょう)18年正月25日死去、法号国清院、備前(びぜん)国(岡山県)和気(わけ)郡和意谷(わいだに)に葬られた。
[谷口澄夫]
『谷口澄夫他著『大名列伝Ⅰ 武功篇 上』(1966・人物往来社)』
(平野明夫)
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安土桃山時代の武将。初名照政,幼名古新,通称三左衛門。恒興の次男。1580年(天正8)織田信長の摂津花熊の荒木一族攻撃の際兄之助とともに奮戦し賞され,84年の小牧・長久手の戦では父と兄を失った。しかし豊臣秀吉に美濃大垣10万石を安堵され,のち岐阜城に移り,弟長吉とともに豊臣氏の有力部将として天下統一戦に従軍,90年三河吉田15万2000石余を与えられた。1588年の聚楽第行幸に供奉して従四位下侍従に任ぜられ,豊臣姓を与えられていたので羽柴吉田侍従と称した。輝政は初め中川清秀の女をめとったが,94年(文禄3)秀吉の意向により徳川家康の女を継室に迎えて姻戚となる。関ヶ原の戦では東軍の先鋒として岐阜城を落とし,播磨52万石を与えられて姫路城を築いた。徳川氏に厚遇されて松平の姓を許され,しばしば加増されたので世に姫路宰相百万石といわれた。
執筆者:岩沢 愿彦
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1564.12.29~1613.1.25
織豊期~江戸初期の武将・大名。恒興の次男。1584年(天正12)父と兄元助(もとすけ)の所領を継いで美濃国大垣城主となり,翌年岐阜城主。91年三河国吉田城に移り,15万2000石を領す。94年(文禄3)徳川家康の女督姫(良正院)を継室とする。関ケ原の戦の戦功により播磨国姫路52万石を領し,一族の所領をあわせると92万石に達したため,西国の将軍と称された。姫路城の大部分は輝政の構築によるもの。
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…(1)南北朝・室町・戦国期の摂津の国人。橘諸兄の後裔とする伝承があるが不詳。1363年(正平18∥貞治2)の幕府文書に摂津守護赤松光範の被官として池田親政とあるのが初見。南北朝中期,守護より加茂庄(現,兵庫県川西市)の半済地をあてがわれ,また垂水西牧小曾禰村(現,豊中市)の番頭にも名がみえる。室町期には守護細川氏の有力被官となり,伊丹,吹田両氏と並ぶ摂津屈指の土豪に成長した。加茂,垂水のほか,細川庄,桜井郷など各荘園の代官を兼ね,給分を資本に高利貸も行って,応仁の乱ころは年収1万2000貫,〈富貴無双〉とうたわれた。…
…古くは《万葉集》にみえる思賀麻江である。姫路藩主池田輝政はここを城下の外港として重視し,1601年(慶長6)入江に向島を建設し,船役所・船置場を置き,船手(ふなて)(水主(かこ))を配置した。09年には城の外堀から南へ飾磨入江に達する運河(三左衛門堀)を通じようとしたが失敗した。…
…人口9万7632(1995)。町の発展は池田輝政による加古川水運の改修と港の整備により始まり,播磨の穀倉地帯を背後にもつことから姫路藩の年貢米の集散地,内海航路の拠点として栄えた。明治中期,鉄道(山陽本線)が市内を避けたことから発展が遅れたが,加古川の水に恵まれているのでしだいに製紙,紡績などの工場が立地し,昭和に入ると機械,化学,窯業などがつづいた。…
…国高は52万石となった。 関ヶ原の戦(1600)のあと徳川家康の女婿池田輝政が播磨一国52万石をうけて姫路城に入った。彼は翌年(慶長6)播磨国中の太閤検地帳を回収し,机上計算によって2割の高増しを行い,それによってさっそく年貢増徴を果たした。…
…本能寺の変(1582)で秀吉の在城は3年余で終わり,そのあと姫路には弟秀長が,次いで85年からは木下家定が在城した。関ヶ原の戦後1ヵ月,1600年(慶長5)10月池田輝政が播磨一国52万石を与えられて入封,縄張りを改めて新たに今の姫路城を築いた。内堀はらせん状に旋回して藍染川に連なって中堀となり,さらに船場川から外堀につながって城下町の地域を区画する。…
…近世の築城は,1580年(天正8)に当時の城主黒田孝高(如水)が,毛利氏と戦うべく西下した羽柴秀吉にこの城を明けわたし,秀吉の居城として普請したのに始まる。秀吉の後もその親族が城主であったが,関ヶ原の戦後,徳川家康はここに池田輝政を封じ,西国大名に備えた。輝政は大天守,小天守,渡櫓(わたりやぐら)などからなる天守群を1609年(慶長14)までに完成させるなど,大規模な改修工事を行った。…
…1580年(天正8)羽柴(豊臣)秀吉が黒田孝高(よしたか)から姫路城を譲られたが,本能寺の変(1582)ののち大坂城に移り,そのあと83年に弟秀長が在城し,ついで85年以降木下家定1万1300石(のち2万5000石)が在城した。関ヶ原の戦後1ヵ月,1600年(慶長5)10月徳川家康の女婿池田輝政が播磨一国52万石の大名として入城した。その翌年,机上計算で6年前の太閤検地の高を早くも2割増高(ましだか)する措置をとり,それを追認させる作業として,数年をかけて2割打出し検地を行った。…
…戦国の武将牧野氏がこの地に今橋城を築いて職人を招き,社寺を勧請してから発展し,一説では1522年(大永2)牧野信成が今橋城を改めて吉田城と称したという。吉田城は東から今川氏,西からは松平氏,それに田原の戸田氏の進攻の前に幾度か戦火にさらされたが,豊臣秀吉の命によって池田輝政が15万石余で入封すると,城郭を築き,豊川の治水に努力し,町並みを整備するなど,本格的な城下の建設に着手した。江戸幕府創設後は譜代大名の交替が相次いだが,歴代藩主の努力もあって城下町として発展した。…
※「池田輝政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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