デジタル大辞泉
「河上丈太郎」の意味・読み・例文・類語
かわかみ‐じょうたろう〔かはかみヂヤウタラウ〕【河上丈太郎】
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かわかみ‐じょうたろう【河上丈太郎】
- 政治家。東京都出身。東京帝国大学卒。父の影響でクリスチャンとなり、関西学院で教える。日本労農党に入党。昭和三年(一九二八)衆議院議員に当選。戦時中大政翼賛会総務。戦後右派社会党委員長、浅沼稲次郎のあとの日本社会党委員長。明治二二~昭和四〇年(一八八九‐一九六五)
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河上丈太郎
かわかみじょうたろう
(1889―1965)
政治家。明治22年1月3日東京市生まれ。父は友愛会初代評議員を務めたクリスチャンであった。第一高等学校、東京帝国大学法学部では新渡戸稲造(にとべいなぞう)、高野岩三郎の感化を受け、1927年(昭和2)まで関西学院大学教授。この間、1924年(大正13)政治研究会神戸支部長、1926年日本労農党に参加して1928年の第1回普通選挙で兵庫1区から当選した。1929年山本宣治(やまもとせんじ)が右翼に刺殺されると、翌日3月6日の衆議院本会議で「山本君の屍(しかばね)を踏台として、将来の民衆が再び立つ時があると私は信じて居る」と追悼演説し非常な反響をよぶ。1936、1937年の総選挙では社会大衆党から連続当選。政党解消後、大政翼賛会総務となり、翼賛選挙では推薦候補として当選、第二次世界大戦後の公職追放の理由となる。1952年(昭和27)8月右派社会党委員長として政界復帰、「委員長は私にとって十字架であります。十字架を背負うて死に至るまで戦うことを決意いたしました」とあいさつ、「十字架委員長」とよばれる。その後、社会党統一に尽力、1955年統一後、1961年から1965年まで委員長を務め、同年12月3日病で没した。
[荒川章二]
『『私の履歴書 第13集』(1961・日本経済新聞社)』▽『河上前委員長記念出版委員会編『河上丈太郎』(1966・日本社会党機関紙局)』▽『河上末子著『むら雲のかなたに』(1962・東海大学出版会)』▽『芳賀綏著『威風堂々の指導者たち――昭和人物史に学ぶ』(2008・清流出版)』
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河上 丈太郎
カワカミ ジョウタロウ
- 肩書
- 日本社会党委員長,衆院議員
- 生年月日
- 明治22年1月3日
- 出生地
- 東京市芝区巴町(現・東京都港区)
- 学歴
- 東京帝大法学部政治学科〔大正4年〕卒
- 経歴
- 立教大学講師を経て、大正7年関西学院大学教授となる。10年神戸の川崎造船・三菱造船争議を契機に無産運動に関心を深め実践活動に入る。15年日本老農党に入党。昭和2年関学大教授を辞職し、弁護士を開業。3年第1回普選で衆院議員に当選。以後計10回当選。この間、日本大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党などを経て、15年大政翼賛会総務となる。戦後、21年公職追放、日本社会党結成に参加。追放解除後の27年分裂中の右派社会党委員長に迎えられ、社会党統一に尽力し、統一後は顧問。36年浅沼委員長勅選後、委員長に就任したが、病気のため40年辞任した。
- 没年月日
- 昭和40年12月3日
- 家族
- 息子=河上 民雄(衆院議員)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
河上 丈太郎
カワカミ ジョウタロウ
昭和期の政治家,社会運動家 日本社会党委員長;衆院議員。
- 生年
- 明治22(1889)年1月3日
- 没年
- 昭和40(1965)年12月3日
- 出生地
- 東京市芝区巴町(現・東京都港区)
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法学部政治学科〔大正4年〕卒
- 経歴
- 立教大学講師を経て、大正7年関西学院大学教授となる。10年神戸の川崎造船・三菱造船争議を契機に無産運動に関心を深め実践活動に入る。15年日本老農党に入党。昭和2年関学大教授を辞職し、弁護士を開業。3年第1回普選で衆院議員に当選。以後計10回当選。この間、日本大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党などを経て、15年大政翼賛会総務となる。戦後、21年公職追放、日本社会党結成に参加。追放解除後の27年分裂中の右派社会党委員長に迎えられ、社会党統一に尽力し、統一後は顧問。36年浅沼委員長勅選後、委員長に就任したが、病気のため40年辞任した。
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河上丈太郎 (かわかみじょうたろう)
生没年:1889-1965(明治22-昭和40)
日本社会党右派の指導者。キリスト教徒。東京出身。立教中学在学中に《万朝報(よろずちようほう)》の反戦論に傾倒する。東大法学部卒業。1918年関西学院教授に就任し,22年に大阪労働学校が創設されると講師となり,無産運動に参加。26年日本労農党入党。28年代議士に当選し,36年再選。社会大衆党解党後,40年大政翼賛会総務,42年翼賛選挙で推薦候補として当選。敗戦後公職追放。解除後右派社会党に属し,52年委員長。55年社会党統一に尽力。60年浅沼稲次郎と委員長選挙を争い敗北。安保闘争中に右翼テロで負傷。61-65年社会党委員長をつとめた。
執筆者:吉見 義明
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河上丈太郎【かわかみじょうたろう】
政治家,社会運動家。東京都出身。東大卒。弁護士出身で社会運動に入り,社会民衆党,社会大衆党の幹部。1940年大政翼賛会総務。第2次大戦後右派社会党委員長に就任し,1955年の日本社会党統一に尽力した。1961年日本社会党委員長に就任したが1965年病気のため辞任。
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河上丈太郎
かわかみじょうたろう
[生]1889.1.3. 東京
[没]1965.12.3. 静岡
政治家。東京大学を卒業,弁護士と教職をしながら無産運動に参加。 1928年,初の普通選挙で衆議院議員に当選。第2次世界大戦後公職追放となったが,解除後の 52年右派社会党委員長となる。浅沼委員長暗殺のあと,61年から 65年まで日本社会党委員長をつとめた。人格高潔,キリスト教信仰に基づく人道的社会主義者だった。
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河上丈太郎 かわかみ-じょうたろう
1889-1965 昭和時代の政治家。
明治22年1月3日生まれ。少年時にキリスト教に入信。関西学院教授などを歴任して昭和2年弁護士を開業,日本労農党にはいる。翌年第1回普通選挙で衆議院議員(当選10回),日本大衆党,社会大衆党などをへて社会党結成に参加。27年右派社会党委員長。36年社会党委員長。昭和40年12月3日死去。76歳。東京出身。東京帝大卒。
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河上丈太郎
かわかみじょうたろう
1889〜1965
昭和期の革新系政治家
東京の生まれ。関西学院大教授。1928年,第1回普通選挙で日本労農党から衆議院議員に当選。第二次世界大戦後,'51年右派社会党委員長となる。'55年社会党統一後同党顧問,浅沼稲次郎委員長が刺殺されてのち,'61年委員長に就任。'65年病気で辞任後死去した。
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河上 丈太郎 (かわかみ じょうたろう)
生年月日:1889年1月3日
昭和時代の政治家。日本社会党委員長;衆議院議員
1965年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報