日本労農党(読み)にほんろうのうとう

精選版 日本国語大辞典 「日本労農党」の意味・読み・例文・類語

にほん‐ろうのうとう‥ラウノウタウ【日本労農党】

  1. 労働農民党分裂後、大正一五年(一九二六)、中間派を結集して設立された無産政党社会民衆党労農党と対立しつつ、電灯料値下げ運動、借家人運動など独自の闘争を組織した。昭和三年(一九二八)には七党合同により日本大衆党となった。日労党。

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百科事典マイペディア 「日本労農党」の意味・わかりやすい解説

日本労農党【にほんろうのうとう】

1926年結成の中間派無産政党日本労働総同盟全日本農民組合日本農民組合)の一部が提携して結成。電灯料値下げ運動などを行ったが労農党社会民衆党の左右両翼にはさみ撃ちされて停滞。1928年日本農民党等と合流して日本大衆党を組織。
→関連項目浅沼稲次郎麻生久日本労働組合同盟無産政党無産大衆党

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本労農党」の意味・わかりやすい解説

日本労農党
にほんろうのうとう

昭和初期の中間派無産政党。1926年(大正15)12月9日、日本労働総同盟幹部の社会民衆党結成に反対する総同盟反幹部派と、日本農民組合の左傾化に反対する反共産派によって結成された。浅沼稲次郎(いねじろう)、須永好(すながこう)、三宅正一(みやけしょういち)、棚橋小虎(たなはしことら)などが創立発起人となり、書記長には三輪寿壮(みわじゅそう)が就任(1927年より麻生久(あそうひさし))。河野密(こうのみつ)、田所輝明(たどころてるあき)らが理論的代表者であった。共産主義、社会民主主義の左右両翼を排して、階級闘争主義に基づく現実政策の推進、単一無産政党の実現を目ざした。日本労働組合同盟、全日本農民組合を基盤に、対華非干渉運動、電灯料金値下げ運動、土地立入禁止絶滅運動などを展開。28年(昭和3)の第1回普通選挙には河上丈太郎(かわかみじょうたろう)(兵庫)が当選したが、同年12月20日、七党合同で日本大衆党に発展、解消した。

[塩田咲子]

『麻生久伝記刊行会編・刊『麻生久伝』(1956)』『増島宏他著『無産政党の研究』(1969・法政大学出版局)』

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改訂新版 世界大百科事典 「日本労農党」の意味・わかりやすい解説

日本労農党 (にほんろうのうとう)

1926年12月結成された中間派無産政党。労働農民党(労農党)結成後,日本労働組合評議会(評議会)など左派が進出しはじめ,これに反発した日本労働総同盟(総同盟)など右派は脱退して社会民衆党をつくるが,このような状況をみて左右両派にあきたらない総同盟,日本農民組合(日農)内の一派が結集して結党した。左派の労農党,右派の社会民衆党と対比され中間派とよばれた。書記長三輪寿壮,のち麻生久。おもな役員は田所輝明,浅沼稲次郎,河野密,三宅正一らで,その人脈は戦後の日本社会党にまでつながっている。支持団体は日本労働組合同盟,日本労働組合総連合,日農堅実派同盟など。第1回普通選挙では河上丈太郎が代議士に当選。対華非干渉運動,全国労農大会,治安維持法改悪反対運動などを行ったが,振るわなかった。28年の三・一五事件で労働農民党が解体状態になったので,地方無産諸政党と合同し,日本大衆党に発展した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本労農党」の意味・わかりやすい解説

日本労農党
にほんろうのうとう

日本の政党。 1926年 12月9日結成。労働戦線,農民組合の左右への分裂の渦中に,総同盟,社会民衆党の右傾化にあきたらぬ麻生久らと,日本農民組合の左傾化に反発する人々らが結合してできた。その綱領には,(1) 国情に即した無産階級の政治的,経済的,社会的解放,(2) 合法的手段による土地,生産分配制度の改革,(3) 無産階級の利害からする議会の改造などを掲げた。書記長は三輪寿壮で,その組織的地盤を日本労働組合同盟,全日本農民組合におき8万の党員を擁した。 28年2月の総選挙では河上丈太郎を当選させるなど成果をあげた。同年 12月日本農民党無産大衆党,九州民憲党と合同し,日本大衆党となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日本労農党」の解説

日本労農党
にほんろうのうとう

昭和初期の中間派無産政党。左派が主導権を握った労働農民党から右派が脱退して社会民衆党を結成した後,中間派の麻生久・三輪寿壮(じゅそう)らが脱退して1926年(大正15)12月9日に結成。書記長三輪,のち麻生。対支非干渉運動,治安維持法改悪反対運動などを行う一方,無産政党合同を働きかけ,28年(昭和3)12月7党合同により日本大衆党を結成。日労系とよばれる人脈は以後も中間派無産政党の中心となり,第2次大戦後の日本社会党まで続いた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日本労農党」の解説

日本労農党
にほんろうのうとう

昭和初期の中間派無産政党(1926〜28)
1926年労働農民党を脱党した中間派を中心に結成。幹部には三輪寿壮・麻生久・浅沼稲次郎らがいる。日本労働組合同盟・全日本農民組合を配下とし,対華非干渉運動・電灯料値下げ運動その他の現実政策をめざしたが成果は少なかった。'28年12月小政党を糾合し日本大衆党に発展。'30年全国大衆党,さらに '31年労農党と合同して全国労農大衆党となった。

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世界大百科事典(旧版)内の日本労農党の言及

【無産政党】より

…同党は日本の右翼社会民主主義政党の源流となったが,活動は概して低調であった。他方,総同盟主流派のかたくなな反共主義に不満の麻生久らは,日農の須永好,三宅正一らとはかり,日本労農党(書記長三輪寿壮)を結成,左右両翼を排する中間派社会民主主義政党の出発点となった。これに伴い総同盟第2次分裂,日農の分裂が起こったが,政党分裂が大衆団体の分裂を引き起こすという日本の民衆運動の悪しき伝統が,この時期に形づくられた。…

※「日本労農党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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