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昭和初期の中間派無産政党。1926年(大正15)12月9日、日本労働総同盟幹部の社会民衆党結成に反対する総同盟反幹部派と、日本農民組合の左傾化に反対する反共産派によって結成された。浅沼稲次郎(いねじろう)、須永好(すながこう)、三宅正一(みやけしょういち)、棚橋小虎(たなはしことら)などが創立発起人となり、書記長には三輪寿壮(みわじゅそう)が就任(1927年より麻生久(あそうひさし))。河野密(こうのみつ)、田所輝明(たどころてるあき)らが理論的代表者であった。共産主義、社会民主主義の左右両翼を排して、階級闘争主義に基づく現実政策の推進、単一無産政党の実現を目ざした。日本労働組合同盟、全日本農民組合を基盤に、対華非干渉運動、電灯料金値下げ運動、土地立入禁止絶滅運動などを展開。28年(昭和3)の第1回普通選挙には河上丈太郎(かわかみじょうたろう)(兵庫)が当選したが、同年12月20日、七党合同で日本大衆党に発展、解消した。
[塩田咲子]
『麻生久伝記刊行会編・刊『麻生久伝』(1956)』▽『増島宏他著『無産政党の研究』(1969・法政大学出版局)』
1926年12月結成された中間派無産政党。労働農民党(労農党)結成後,日本労働組合評議会(評議会)など左派が進出しはじめ,これに反発した日本労働総同盟(総同盟)など右派は脱退して社会民衆党をつくるが,このような状況をみて左右両派にあきたらない総同盟,日本農民組合(日農)内の一派が結集して結党した。左派の労農党,右派の社会民衆党と対比され中間派とよばれた。書記長三輪寿壮,のち麻生久。おもな役員は田所輝明,浅沼稲次郎,河野密,三宅正一らで,その人脈は戦後の日本社会党にまでつながっている。支持団体は日本労働組合同盟,日本労働組合総連合,日農堅実派同盟など。第1回普通選挙では河上丈太郎が代議士に当選。対華非干渉運動,全国労農大会,治安維持法改悪反対運動などを行ったが,振るわなかった。28年の三・一五事件で労働農民党が解体状態になったので,地方無産諸政党と合同し,日本大衆党に発展した。
執筆者:吉見 義明
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昭和初期の中間派無産政党。左派が主導権を握った労働農民党から右派が脱退して社会民衆党を結成した後,中間派の麻生久・三輪寿壮(じゅそう)らが脱退して1926年(大正15)12月9日に結成。書記長三輪,のち麻生。対支非干渉運動,治安維持法改悪反対運動などを行う一方,無産政党合同を働きかけ,28年(昭和3)12月7党合同により日本大衆党を結成。日労系とよばれる人脈は以後も中間派無産政党の中心となり,第2次大戦後の日本社会党まで続いた。
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…同党は日本の右翼社会民主主義政党の源流となったが,活動は概して低調であった。他方,総同盟主流派のかたくなな反共主義に不満の麻生久らは,日農の須永好,三宅正一らとはかり,日本労農党(書記長三輪寿壮)を結成,左右両翼を排する中間派社会民主主義政党の出発点となった。これに伴い総同盟第2次分裂,日農の分裂が起こったが,政党分裂が大衆団体の分裂を引き起こすという日本の民衆運動の悪しき伝統が,この時期に形づくられた。…
※「日本労農党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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