日本大百科全書(ニッポニカ) 「畠山基国」の意味・わかりやすい解説
畠山基国
はたけやまもとくに
(1351―1406)
南北朝・室町時代の武将。義深(よしふか)の嫡子。右衛門佐(うえもんのすけ)。侍所頭人(さむらいどころとうにん)・引付(ひきつけ)頭人を経て、1366年(正平21・貞治5)に斯波(しば)一族追討により義深が得た越前(えちぜん)守護職を、80年(天授6・康暦2)ころまでに斯波義将(よしまさ)の越中(えっちゅう)守護職と交換し、越中守護となった。楠木正儀(くすのきまさのり)が南朝方に復帰した83年(弘和3・永徳2)には河内(かわち)守護に任ぜられ、91年(元中8・明徳2)ころには能登(のと)を分国とした。明徳(めいとく)の乱の功により山城(やましろ)守護ともなり、侍所頭人も兼帯した。94年(応永1)大和(やまと)の小夫宗清(おうぶむねきよ)討伐で名声を高め、98年から7年間管領(かんれい)を勤めた。この管領補任(ぶにん)により、従来細川氏、斯波氏が交代で管領に就任する慣例が破られ、畠山氏を加えることになり、三管領・四職の家格成立への端緒となった。管領就任中の99年には大内義弘(よしひろ)を追討(応永(おうえい)の乱)し、その分国紀伊(きい)を得、越中、河内、能登、紀伊の四か国を領国とした。このほか一時的に尾張(おわり)、伊勢(いせ)の守護となるなど台頭が目覚ましかった。応永13年正月17日没。法号は長禅寺殿春岩徳元。
[石田晴男]
『小川信著『足利一門守護発展史の研究』(1980・吉川弘文館)』