改訂新版 世界大百科事典 「神屋宗湛」の意味・わかりやすい解説
神屋宗湛 (かみやそうたん)
生没年:1551-1635(天文20-寛永12)
織豊政権より江戸幕府初期に至る博多の豪商で,茶人としても有名。幼名善四郎,字は貞清。神屋家は室町中期より代々博多の主だった豪商で,2代目主計は1539年(天文8)に遣明船の総船頭をつとめるなど,一族とともにたびたび遣明船貿易に従事した。また貿易の関係で従来から神屋家は出雲の鷺銅山の銅を求めていたが,3代目寿貞によって鉛を媒剤とする銀の製錬技術を輸入し,1533年他の博多の吹工の協力を得て石見銀山の経営に成功した(《銀山旧記》)。宗湛の父は神屋家5代目紹策で,戦乱のため一時唐津に移っていたが,朝鮮貿易や上方への商売などによって巨富を得た。86年(天正14)ごろより博多の宗湛は京都や堺の豪商間にも著名となり,千利休とも茶会などで交際があった。織田信長や豊臣秀吉とも茶会その他で親交が生じ,とくに秀吉より〈筑紫ノ坊主〉と呼ばれて一段の殊遇をうけた(《宗湛日記》)。宗湛は博多の豪商島井宗室と並んで博多の頭人として重きをなし,博多の復興に尽力し,秀吉の朝鮮出兵に際し宗湛らは兵站基地博多の頭人として貢献し,100石の知行地を与えられた。秀吉没後博多は黒田如水・長政の城下町となり,宗湛は黒田氏を通じて家康との関係を斡旋してもらうが成功せず,福岡藩の一特権町人として昔日の面影を失った。
執筆者:中田 易直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報