江戸中期の本草(ほんぞう)学者。名は宣義(のぶよし)。江戸に生まれ大坂に移る。儒学を伊藤仁斎(いとうじんさい)に学び、父恒軒(こうけん)(1610―1680)の医業を継いだ。本草を福山徳順(ふくやまとくじゅん)(生没年不詳。徳潤とも記される)に師事、「薬物は国産のもの、中国書にあるもの千二百余種を精査した者は古今を通じて余一人」と学殖を示した。1693年(元禄6)儒者として加賀藩主前田綱紀(まえだつなのり)に禄(ろく)200俵で抱えられ、以後『庶物類纂(しょぶつるいさん)』(博物大全)の編纂に20年間精力を傾注、362巻までを脱稿して正徳(しょうとく)5年京都に病没した。綱紀は若水の偉業をたたえ、学問を奨励する8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)に本書を献じた。ほかに、和刻本中もっとも信が置けるという『校正本草綱目』53巻、薬物の選品を論じた『炮炙全書(ほうしゃぜんしょ)』『物産目録』など。丹羽正伯(にわしょうはく)、野呂元丈(のろげんじょう)、松岡恕庵(まつおかじょあん)は門人で、正伯は『庶物類纂』を1000巻に増補した。
[根本曽代子]
『『庶物類纂』全11巻(科学書院・1987~1991)』
江戸中期の本草家。名は宣義,字は彰信,号は若水,通称は正助,のちにみずから稲若水(とうじやくすい)と改名。儒医稲生恒軒を父として江戸に生まれる。1693年(元禄6)加賀藩主前田綱紀に儒者,本草家として召し出された。《庶物類纂》1000巻の編述を志し,綱紀の後援のもとに作業をはじめ,362巻を完成しただけで死去した。これは中国文献にある動植物の記事を集録したもので,名物学,博物学の傾向が強い本草書である。その後,将軍徳川吉宗の命令で若水の弟子たちが692巻を補い1054巻となった。膨大な書物であるうえ,官庫に収められたこともあって,利用されることは少なかったが,若水の名物学的・博物学的研究態度は後進に影響を与えた。
執筆者:矢部 一郎
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1655~1715.7.6
稲(とう)若水とも。江戸中期の本草家。名は宣義,字は彰信,通称正助。山城国淀藩永井氏の儒医稲生恒軒の子。江戸生れ。父に医学を,福山徳順に本草学を学ぶ。主家除封のため流浪して京都に移り,1693年(元禄6)加賀国金沢藩主前田綱紀に儒者役として仕え,その命により「庶物類纂」の編纂を行うが,未完のまま病没。その間,隔年詰の出仕が許されたため,金沢にいるとき以外は京都に開塾して本草学を講義。門人に松岡恕庵(じょあん)・野呂元丈(げんじょう)・丹羽正伯(にわしょうはく)・内山覚仲(かくちゅう)ら著名な本草家がおり,本草学の発展に大きく貢献した。著書「庶物類纂」前編362巻,「炮炙(ほうせき)全書」「食物伝信纂」。
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…その後も盛んに中国から本草学が導入されたが,漢籍を日本風に理解したのと呼応して,植物学でも,中国で記述された種を日本風に解釈するにとどまっていた。やっと18世紀になって,貝原益軒の《大和本草》(1709)や稲生若水の《庶物類纂》(未完),小野蘭山《本草綱目啓蒙》(1806)などによって日本風の本草学が集成されていった。江戸時代末にはC.P.ツンベリーやP.F.vonシーボルトなどを介して西洋本草学の影響が及び飯沼慾斎《草木図説》(1852),岩崎灌園《本草図譜》(1828)などが出版され,日本の植物についての高い知見が示されていった。…
※「稲生若水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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