紀氏 (きうじ)
古代の氏族。(1)紀伊国造(きのくにのみやつこ)家。紀伊国名草郡に本拠をもつ紀直氏。神武朝に初祖天道根命が当国国造に任ぜられたのに始まるという。子孫その職を継ぎ,日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)社を奉斎し,中世末まで強大な勢力をもった。直姓賜与の時期は明らかでないが,《紀伊国造系図》によると,神功紀に見える豊耳の子豊布流(10代)のとき,大直を賜ったとある。承和年中(834-848)一族相ついで宿禰(すくね)姓を賜ったが,天元年中(978-983)38代奉世に男子がなく,女婿紀朝臣文煥の子行義を嗣とし,以後朝臣(あそん)姓を称した。豊臣秀吉の南征で神領を没収され,その後は日前・国懸神社の神職の長として存続。
(2)中央貴族。孝元天皇の皇子と紀伊国造の女との間に生まれた武内宿禰の子木角宿禰を祖とする。武内宿禰の母方の氏名を継承したものであろう。はじめ臣姓,684年(天武13)朝臣姓を賜った。氏神に紀氏神社(大和平群郡),氏寺に紀寺(同高市郡,のち平城左京)があった。古代屈指の大族で,大化前代には,小弓(雄略朝),大磐(雄略・顕宗朝),男麻呂(欽明・推古朝)らが外征将軍に任じ,主として軍事・外交面に雄飛。以後は大人(天智朝),麻呂(文武朝),麻路(聖武朝),船守(光仁朝),古佐美(桓武朝)らが大・中納言に任じ,光仁天皇の生母橡姫を出すなど,内政面にも活躍したが,平安時代には長谷雄(醍醐朝)が中納言となった以外は振るわず,わずかに貫之・友則らの歌人を輩出して学問・文学の分野に名をとどめた。
執筆者:薗田 香融
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紀氏
きうじ
(1)紀伊国造(きいのくにのみやつこ)家。『国造本紀(こくぞうほんぎ)』によれば神皇産霊尊(かんむすひのみこと)5世孫天道根命(あめのみちねのみこと)に始まる神別氏で、代々日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神社の神主と、名草郡領(なぐさぐんりょう)を世襲した。直(あたい)姓のち宿禰(すくね)姓。平安中期紀朝臣(きのあそん)行義が入婿して皇別氏となり、江戸末期飛鳥井三冬(あすかいみふゆ)が養子となって藤原氏となった。明治に至り男爵を授けられた。
(2)孝元(こうげん)天皇の孫(曽孫(そうそん)とも)武内宿禰(たけしうちのすくね)の子木角宿禰(きのつののすくね)の後と称する皇別氏で、武内の母木国造(きのくにのみやつこ)の女(むすめ)影媛(かげひめ)の縁故によって木(紀)氏を冒したもの。『古事記』などに葛城(かずらき)・平群(へぐり)・蘇我(そが)・巨勢(こせ)などの雄族と同族と伝える。古代屈指の豪族で、『日本書紀』に小弓(おゆみ)、その子大磐(おおいわ)、男麻呂(おまろ)らの朝鮮での活躍が伝えられ、本拠紀伊と瀬戸内沿岸各地の支族を掌握して海路を確保し、大和(やまと)政権の朝鮮経営に積極的に関与した。大化以後も大人(うし)・麻呂(まろ)・飯麻呂(いいまろ)・広純(ひろずみ)・古佐美(こさみ)・船守(ふなもり)など多くの高官を出したが、長谷雄(はせお)以後はしだいに衰え、のちにはもっぱら学者・文人を出すようになって政界から脱落した。
[黛 弘道]
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紀氏
きうじ
古代の氏族。 (1) 武内宿禰の子木角宿禰 (きのつののすくね) が,母方の姓を継いで始祖となる。中央政界に活躍した古代の名族で,新羅征討将軍となった小弓宿禰,男麻呂宿禰らがいる。初めて東国国司となった麻利耆 拖臣,御史大夫となった大人臣が大和時代に活躍し,奈良時代末期には,光仁天皇の生母紀橡姫が出,平安時代には,紀長谷雄が中納言となり,文人としては貫之,友則が目立つ。 (2) 紀伊国造家。アメノミチネノミコトを祖とする。紀伊国造を世襲し,日前 (ひのくま) ,国懸 (くにかかす) の両社の祭祀を司った。平安時代に嗣子が絶え,武内宿禰の流れの行義が継ぎ,江戸時代末期に再び嗣子が絶えたので,飛鳥井三冬が継いだ。
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紀氏
きうじ
古代の中央豪族。姓は臣(おみ),684年(天武13)の八色の姓(やくさのかばね)制定時に朝臣(あそん)となる。始祖は孝元天皇の孫,あるいは曾孫にあたる武内宿禰(たけのうちのすくね)とその子紀角(きのつの)宿禰とされる。外征にかかわって勢力を拡大し,7~8世紀に麻呂・飯麻呂(いいまろ)など上級官人をだす。光仁朝では外戚として大納言に古佐美(こさみ)・船守(ふなもり),参議に広庭(ひろにわ)・家守(いえもり)・勝長らを輩出。866年(貞観8)の応天門の変で失脚し,その後は「古今集」撰者の貫之(つらゆき)・友則らの文人を輩出するにとどまった。
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紀氏
きうじ
古代の豪族
武内宿禰 (たけしうちのすくね) の子が母方の氏をついだのに始まるという。姓 (かばね) は初め臣 (おみ) ,のち朝臣 (あそん) 。大和政権の将軍・廷臣として活躍。大化以後,光仁天皇の外戚として勢力を得,大納言・参議を輩出したが,応天門の変で失脚してからふるわず,文人に貫之・友則を出すにとどまった。
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世界大百科事典(旧版)内の紀氏の言及
【鋳物師】より
…そして1165年(永万1),蔵人所小舎人惟宗兼宗が年預となり,河内国日置荘(狭山郷)の鋳物師を番頭とし,諸国散在の鋳物師に短冊をくばってこれを番に編成,天皇に灯炉などの課役を調進する蔵人所灯炉以下鉄器物供御人(くごにん)(通称,灯炉供御人)が成立する。つづいて1168年(仁安3),河内,和泉,伊賀の辺で活動する広階姓鋳物師を惣官とし,おそらく蔵人所小舎人紀氏を年預とした別の灯炉供御人が組織される。前者が右方作手,土鋳物師であり,後者は左方作手,廻船鋳物師といわれた。…
【紀・清両党】より
…下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏,清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期,同神社座主[宇都宮氏]に従属して活躍した武士団の一つ。…
【精進供御人】より
…精進供御人の中には,黄瓜(きうり)供御人,蓮根(れんこん)供御人,竹子(たけのこ)供御人,唐納豆(からなつとう)供御人,蒟蒻(こんにやく)供御人,唐粉(からこ)供御人,索麵(そうめん)供御人などが含まれたと思われ,その源流は,律令制下宮内省で蔬菜樹果のことをつかさどった園池司(園戸)や,菓餅庶食のことをつかさどった大膳職(膳部)にあったらしい。 供御人身分の編成に大きな働きのあったのは,代々御厨子所(みずしどころ)預を務めた地下官人紀氏で,12世紀後期,〈都鄙供御人〉の交易分をもって日次(ひなみ)供御を備進させることに成功し,1274年(文永11)には,〈三条以南魚鳥精進菓子已下交易輩〉を,すべて御厨子所供御人として沙汰すべし,との蔵人所牒を獲得している。ただ供御人の進止(支配)権をめぐっては,内蔵頭(くらのかみ)が御厨子所別当を兼ねる例となっていたことから,内蔵寮との間に係争が繰り返された。…
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