1938年(昭和13)第一次近衛文麿(ふみまろ)内閣が対中国政策に関して発した3回の声明。同年1月11日の御前会議は、「支那(しな)事変処理根本方針」を決定し、国民政府の全面屈服拒否には新興政権の樹立をもって対応する強硬方針を明らかにした。その後、中国の回答をめぐり参謀本部の交渉継続論と政府の打切り論が対立したが、16日「帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」という政府声明(第一次近衛声明)を発表し、日中外交関係は事実上断絶した。その後、日本は中国への決定的打撃を与えることができず、解決の見込みのない長期戦の泥沼に陥り、11月3日「東亜新秩序声明」(第二次近衛声明)を発表した。声明は、日本の戦争目的は「東亜新秩序建設」にあり、国民政府が抗日容共政策を放棄すれば、新秩序建設の一員として拒否しないとした。第一次声明の「対手トセズ」という態度を修正して、和平への期待を示すとともに、国民党副総理汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)を擁立する意図が盛り込まれていた。11月30日御前会議は「日支新関係調整方針」を決定、その3原則に基づき近衛は12月22日、「善隣友好、共同防共、経済提携」の根本方針を明らかにした(第三次近衛声明)。汪兆銘ら中国国民政府投降派は、これに呼応して脱出先のハノイで12月29日、国民党へ対日和平の決断を促す通電を公表したが、国民政府内で汪に呼応するものは少数で、国民政府の分裂、屈服を期待した汪兆銘工作は失敗した。
[粟屋憲太郎]
『矢部貞治著『近衛文麿』上(1951・近衛文麿伝記編纂刊行会)』▽『鹿島平和研究所編『日本外交史 第20巻 日華事変(下)』(1971・鹿島研究所出版会)』▽『藤原彰著『昭和の歴史5 日中全面戦争』(1982・小学館)』
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第1次近衛内閣において,近衛文麿首相が日中戦争に関してだした3度の声明。狭義には3度目の声明をさす。第1次近衛声明(1938年1月16日発表)は「国民政府を対手とせず」声明ともよばれ,日中戦争の解決にあたり,蒋介石政権を交渉相手とせず,新政権の出現を期待するというもの。第2次近衛声明(同年11月3日)は東亜新秩序声明ともよばれ,日中戦争の目的は「東亜新秩序建設」にあるとした。第3次近衛声明(同年12月22日)は「日支国交調整方針に関する声明」,いわゆる「近衛三原則」といわれるもので,重慶を脱出した汪兆銘(おうちょうめい)の親日政権樹立を支援するため,日中交渉の条件を提示した。
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…それは満州事変勃発前後の〈日満ブロック〉構想を一歩進め,〈日満支ブロック〉の実現を国策として決定したものであり,36年8月7日の広田弘毅内閣下の5相会議決定〈国策の基準〉に受け継がれた。37年7月7日に勃発した日中戦争は,日本の予想に反して長期戦となり,38年1月16日近衛文麿首相は,〈爾後国民政府を対手とせず〉,日本は〈新興支那政権の成立発展を期待する〉との声明(第1次近衛声明)を発し,国民政府との和平交渉の道をみずから閉ざした。ついで同年11月3日,近衛首相は日本の戦争目的が〈日満支三国〉の提携による東亜新秩序建設にあると声明(第2次近衛声明)し,さらに陸軍の謀略により国民政府反蔣介石派の汪兆銘が重慶からハノイへ脱出した直後の12月22日,日本と〈更生新支那〉との提携の原則は〈善隣友好,共同防共,経済提携〉にあるという近衛3原則を発表した(第3次近衛声明)。…
…日本軍は点と線,つまり都市と鉄道とを握っただけで,その後方では中国共産党の指導で解放区が拡大し,戦況は年を追って不利となった。11月には近衛内閣はこの戦争の目的は東亜新秩序建設にあるとして中国にも協力を求める声明を出し,12月に日本軍の防共駐屯等の国交調整方針を示したいわゆる近衛声明を発表した。国民党副総理汪兆銘はこれに呼応して重慶を脱出し対日和平を提唱した。…
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