大映(読み)だいえい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大映」の意味・わかりやすい解説

大映
だいえい

映画会社。1942年(昭和17)、第二次世界大戦中の映画会社の統合により、日活の製作部門、新興キネマ、大都映画の3社が合併し、大日本映画製作株式会社(略称・大映)が設立された。所属する時代劇四大スター、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)、片岡千恵蔵(かたおかちえぞう)、嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)、市川右太衛門(いちかわうたえもん)が共演する『維新の曲』(牛原虚彦(うしはらきよひこ)監督(1897―1985)、1942年)が第1作となった。翌1943年、菊池寛(きくちかん)が社長に就任。第二次世界大戦後は社名を大映株式会社と改めた。直営館網が整備されていなかったことや、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が上映禁止指定した時代劇作品が旧作に多かったことなどにより、厳しい経営を余儀なくされた。1947年(昭和22)に永田雅一(ながたまさいち)(1906―1985)が社長になり、強いリーダーシップで社を牽引(けんいん)した。片岡千恵蔵の「多羅尾伴内(たらおばんない)」シリーズ(1946~1960)や三益愛子(みますあいこ)(1910―1982)主演の「母もの」などのヒットにより経営基盤を固め、黒澤明(くろさわあきら)監督の『羅生門(らしょうもん)』(1950)がベネチア国際映画祭グランプリに相当するサン・マルコ金獅子賞を獲得。その後も、溝口健二監督の『雨月物語(うげつものがたり)』(1953)と『山椒大夫(さんしょうだゆう)』(1954)(ともにベネチア国際映画祭銀獅子賞)、衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)監督の『地獄門』(1953)(カンヌ国際映画祭グランプリ)などが国際映画祭で連続受賞し、日本映画の芸術性を世界に知らしめた。

 時代劇では、森一生(もりかずお)や三隅研次(みすみけんじ)(1921―1975)らの監督が演出に冴えをみせ、「座頭市(ざとういち)」シリーズ(1962~1971)、「眠狂四郎(ねむりきょうしろう)」シリーズ(1963~1969)などの人気シリーズが生まれ、勝新太郎(かつしんたろう)や市川雷蔵(いちかわらいぞう)(1931―1969)がファンを魅了した。現代劇では、吉村公三郎、市川崑(いちかわこん)、増村保造(ますむらやすぞう)らの監督が活躍し、京(きょう)マチ子(1924― )、若尾文子(わかおあやこ)(1933― )、山本富士子(やまもとふじこ)(1931― )ら女優たちの魅力を引き出した。

 テレビの普及などにより映画界が斜陽化するなか、大映の業績も悪化し1971年に倒産。労働組合の再建運動により、1974年、徳間康快(とくまやすよし)(1921―2000)社長のもとで大映映画株式会社として再建され、株式会社徳間書店の傘下となった。平成「ガメラ」シリーズ(1995~2006)や『Shall we ダンス?』(1996)などをヒットさせるが、2002年(平成14)、徳間書店は映像事業を株式会社角川書店に売却し、角川大映映画が設立される。その後、日本ヘラルド映画を吸収し、角川ヘラルド映画、角川映画と社名を変更し、2011年には、角川書店と角川映画が合併、現在は角川書店が映像事業の展開と旧大映作品の管理を行っている。

[佐藤 武]

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改訂新版 世界大百科事典 「大映」の意味・わかりやすい解説

大映[株] (だいえい)

映画会社。1942年,戦時統合により,日活,新興,大都の3社が合併して大日本映画株式会社として設立された。初代社長は菊池寛。第1回製作作品は,合併によって獲得した阪東妻三郎,片岡千恵蔵,市川右太衛門,嵐寛寿郎の四大スター競演の時代劇《維新の春》である。創立当初は時代劇映画に強みを発揮して松竹,東宝という既存の2社に対抗したが,時代劇に比べて製作,スターともに手薄とみられていた現代劇も,《新雪》(五所平之助監督,1942)の大ヒットで軌道に乗り,以後《風雪の春》(落合吉人監督,1943),《無法松の一生》(稲垣浩監督,1943)などの佳作を生んだ。第2次世界大戦後,社名を大映とし,菊池寛のあとをうけて,撮影所出身の製作者永田雅一が社長に就任,占領軍による時代劇の禁止という苦境を,風俗娯楽映画や女性映画で乗り切った。また,山本嘉次郎,黒沢明,谷口千吉,成瀬巳喜男らの監督と契約を結び,次々と秀作を送り出し,1951年には黒沢の《羅生門》がベネチア映画祭でグラン・プリを受賞,同じくベネチア映画祭で《雨月物語》(溝口健二監督,1953)が入賞,さらに《地獄門》(衣笠貞之助監督,1954)がカンヌ映画祭で受賞して,西欧での日本映画の評価を一挙に高めた。この間,永田はプロデューサー・システムの採用,大作重点主義の企画,1本立て興行の実施,新人監督の積極的な起用など,野心的な製作興行方針を打ち出し,戦後の日本映画界の再興と活性化に貢献した。しかし,映画産業の急速な斜陽化の中で,大映は永田の個人経営的な体質を払拭することができず,市川雷蔵,勝新太郎,田宮二郎らの若手スターの育成に成功したものの,60年代には赤字が累積し,テレビ映画製作,レコード部門設置などによって経営不振の打開を試みたが,71年倒産した。74年大映映画株式会社が再建され,配給部門,撮影所部門なども別会社として発足し,テレビやビデオ映画を中心に製作活動を続けている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大映」の意味・わかりやすい解説

大映
だいえい

1942年に発足した映画会社。第2次世界大戦下の映画産業統合案により,旧日活 (制作部門) ,新興キネマ,大都映画の3社が合併して発足。 1945年に社名を大日本映画製作株式会社から大映株式会社に変更した。当初は素朴な男性的色彩の強い作品を数多く制作した。戦後アメリカ軍によって得意の時代劇が制作を禁止されて苦境に立ったが,探偵物やメロドラマなどで乗り切った。 1951年には黒沢明の『羅生門』がベネチア国際映画祭で日本映画初のグランプリ,サン・マルコ金獅子賞を獲得,以後『雨月物語』『地獄門』をカンヌ,ベネチアの両国際映画祭で続いて入賞させ,日本映画を諸外国に認識させた。大作重点主義という制作方針に沿って 1961年に日本最初の 70ミリ映画『釈迦』を制作,1962年には,新規事業としてレコード室を開設した。この間勝新太郎,市川雷蔵らによる座頭市,眠狂四郎などのシリーズ物時代劇がファンを集めた。しかし映画界を襲った不況の波に勝てず,1971年 12月倒産。 1974年に徳間グループの一つとして映画製作を再開し,1989年からは自社配給も開始した。 2002年に営業権が角川書店に譲渡され,株式会社角川大映映画が設立された。 2004年に社名が角川映画株式会社に変更され,大映の名称は旧作映画のブランド名としてのみ使われることになった。

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世界大百科事典(旧版)内の大映の言及

【日本映画】より

…やがて大将軍撮影所が京都太秦(うずまさ)多藪町の新スタジオへと移転し(1929),東京調布の元日本映画株式会社の多摩川撮影所を買収(1934),日活は太秦・多摩川の時代に入った。しかし,42年,戦時下の映画新体制による統制によって,日活は大映(大日本映画製作株式会社)へと統合され,太秦撮影所,多摩川撮影所ともに大映撮影所となった。 1914年創立の天活(天然色活動写真株式会社)は,東京日暮里元金杉と大阪鶴橋小橋の両撮影所で映画製作を始めた。…

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