映画俳優。1950年代後半から60年代にかけて,おもに時代劇で活躍し,37歳で病没した夭逝(ようせい)の美男スター。その活躍期間は日本の映画産業の隆盛期から衰退期に当たる。俳優として大成したのちの死ではあったが,気品と悲劇性に満ちた美男ぶりは愛惜され続けた。いわば映画そのものが早すぎる死を予感していたかのように,中期以降の作品にはつねに死の影が漂っていた。とくに《眠狂四郎》シリーズ(1963-69)では,端正な容姿が主人公の出生の秘密による虚無感と孤独感で影を帯び,あやしい美しさの魅惑を放ったが,そこには市川雷蔵自身の出生の複雑さと生い立ちの転変が影を落としているのかもしれない。京都市に生まれたこと以外,実父母のことなどは明らかにされておらず,誕生の翌年,歌舞伎俳優市川九団次の養子となって竹内嘉男を名のり,大阪府立天王寺中学に学び,1946年,市川莚蔵の名で歌舞伎の初舞台を踏んで,51年,関西歌舞伎の長老,市川寿海の養子となり,8世市川雷蔵を襲名した。本名,太田吉哉。映画には54年,勝新太郎とともに《花の白虎隊》でデビューし,以後,大映映画のスターとなる。溝口健二監督に抜擢(ばつてき)された出世作《新平家物語》(1955)のりりしい若武者,《濡れ髪三度笠》(1959)などの明朗時代劇のヒーローとして人気を得,初の現代劇で三島由紀夫の小説《金閣寺》の映画化《炎上》(1958)に続く市川崑監督の《ぼんち》(1960)でも浪花男の飄逸(ひよういつ)さを好演。雷蔵自身の10年来の念願であったという村上元三原作,池広一夫監督の股旅物(またたびもの)《ひとり狼》(1968)では,半ば死の世界を生きる流れ者の断念をみごとに演じ,スターとしての絶頂の姿を示し,69年,直腸癌で倒れるまで映画生活15年間に153本の作品に出演。最後の7年間には《忍びの者》シリーズ8本,《眠狂四郎》シリーズ12本をはじめ《陸軍中野学校》5本,任俠劇《若親分》8本と,4シリーズで大活躍。量産される大衆娯楽映画,いわゆるプログラム・ピクチャーの,まさに最後のスターといっていい。
執筆者:山根 貞男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…日本映画。最後の時代劇スターといわれる市川雷蔵の最初のシリーズで,1962年の《忍びの者》から66年の《新書・忍びの者》まで,計8本がつくられ,勝新太郎の《座頭市》シリーズとともに大映の屋台骨になった。いずれも戦国時代が舞台で,史実に取材し,歴史の裏面で暗躍した忍者たちの姿を実録ふうに描く。…
…第3回は同じく東映の《大菩薩峠》三部作(1957‐59)で,監督は内田吐夢(とむ),机竜之助を前作と同じ片岡千恵蔵,お浜・お豊の二役を長谷川裕見子が演じた。第4回は大映の《大菩薩峠》三部作(1960‐61)で,監督は第1部・第2部が三隅研次,第3部が森一生,机竜之助には市川雷蔵,お浜・お豊には中村玉緒が扮した。第5回は東宝の《大菩薩峠》(1966)で,監督は岡本喜八,机竜之助を仲代達矢,お浜を新珠三千代が演じた。…
※「市川雷蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新