寺野東遺跡(読み)てらのひがしいせき

日本歴史地名大系 「寺野東遺跡」の解説

寺野東遺跡
てらのひがしいせき

[現在地名]小山市梁

鬼怒きぬ川の支流川右岸に南北に延びる宝木たからぎ台地東端に位置する旧石器時代から平安時代にかけての複合遺跡。国指定史跡標高約四三メートル、台地東側の水田面からの比高約五メートル。台地の東側は鬼怒川田川浸食と享保年間(一七一六−三六)に開削された吉田よしだ用水によって掘削されている。平成二年(一九九〇)から同六年にかけて行われた工業団地造成に伴う調査によって、旧石器時代後期の石器集中地区、縄文時代中期から後期の集落跡、同中期末から後期初頭の水場遺構、同後期後半から晩期前半の環状盛土遺構、同後期後半から晩期前半の木組み遺構、古墳時代前期の集落跡、同中期末から後期の群集墳、奈良・平安時代の集落跡などの全貌が明らかになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「寺野東遺跡」の解説

てらのひがしいせき【寺野東遺跡】


栃木県小山(おやま)市梁(やな)にある縄文時代中期からの集落跡。鬼怒(きぬ)川支流の田川右岸に南北に延びる宝木台地の東端、標高43m前後に位置する。台地の東側は田川・鬼怒川によって浸食されて沖積地が広がり、南東には筑波山が、遠く北西方向には白根山をはじめ日光連山や赤城山、北には高原山が展望できる。1990年(平成2)からの調査で旧石器時代後期に属する石器が4地点からまとまって発見され、縄文時代中期から晩期の集落跡、古墳時代前期の集落跡、同中期末から後期の群集墳、奈良・平安時代の集落跡などが判明。縄文時代の中期前半からは集落が営まれはじめ、遺跡の中央を北から南に流れる谷の下流を挟んで東西の台地上に、地床炉をもつ5mほどの隅丸方形や円形竪穴(たてあな)住居跡が分布していたと推定される。盛り土遺構中からは土器片や土偶石錘(せきすい)や石剣など、多種多様な遺物が発見されている。この遺跡は、縄文時代の集落や社会の構造、生活の様子とその変遷を考察するうえで貴重な資料を提供していることから、1995年(平成7)に国の史跡に指定された。2004年(平成16)には一帯が「おやま縄文まつりの広場」として開園された。JR水戸線結城駅から車で約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

百科事典マイペディア 「寺野東遺跡」の意味・わかりやすい解説

寺野東遺跡【てらのひがしいせき】

栃木県小山市にある縄文中期〜晩期の集落遺跡。1993年,住居跡や水場遺構とともに,直径165m,高さ3mの環状盛土(かんじょうもりつち)遺構が発掘された。この遺構からは耳飾,土偶,土面や焼けた土,イノシシやシカの骨などが多量に出土している。縄文後期〜晩期に継続的につくられ,祭祀にかかわった遺構とみられている。近年,この種の縄文時代の遺構が関東・東北を中心に発掘されているが,その先駆けとなった。

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