木刻(読み)もっこく(英語表記)mù kè

改訂新版 世界大百科事典 「木刻」の意味・わかりやすい解説

木刻 (もっこく)
mù kè

中国において,板状の木に刀でえがいた形に角ばった切れ目を入れることを木刻といい,これを利用して版画にしたものを木刻画という。木刻画の歴史は非常に古く,現在わかりうる範囲では,イギリスの探検家M.A.スタインによって敦煌莫高窟から発見された唐代の咸通9年(868)に印刷された《金剛般若波羅蜜経》の扉絵にある説法図とされている。唐代は中国における国際性とともに仏教道教の全盛時代で,この二大宗教が造形芸術のうえに開花した時代でもあった。そこで木刻画は二宗派の教義を一般民衆に普及させるのに役立ち,図柄には経巻や仏画はもとより実用に供される図書や暦法関係の書物にまで用いられた。宋代は中国の三大発明の一つといわれる活字印刷術の発明によって,各種の手工技術が大いに発展した。これに加えてこの時代は大衆文学や演劇等が盛行したので,それらの挿絵に木刻画が活用された。元代は異民族のモンゴルが中国を支配した時代で,木刻画の方面では大きな成果を見るにいたらなかった。

 明代は中国の木刻画の発展史上まれにみる黄金時代であった。この時代は漢民族の意欲に満ちた時代で,生産力の向上と分業の発展はいやがうえにも商工業を高度に発展させるにいたった。安徽江蘇浙江,福建各省に所在する各都市では各種の書籍の出版事業が盛行した。なかでも《西廂記》《琵琶行》《金瓶梅》《水滸伝》等伝奇小説や戯曲等が生まれた。これらの民衆の生活感情や思想を文章で表現すると同時に木刻画によってよりいっそう読者にわかりよくするために活用された。さらに特筆すべきは《十竹斎画譜》が色刷り木刻で制作されたことである。これらのほかに各種の画譜や箋譜や単独の木刻画も多く作られた。清代は満州族による政府が漢民族を支配するために,大衆に好かれた小説や戯曲を弾圧し,多くの書物を発禁にした。これに伴って木刻の創作は衰退していった。しかしそうしたなかで大衆が最も愛好した〈年画〉は根強く支持されていた。そのおもな生産地は天津の楊柳青と蘇州の桃花塢(とうかう)であった。蘇州の木刻画において注目すべきは,ヨーロッパの銅版の影響を受けて,遠近法,陰影法を取り入れた作風をひらいたことである。また蘇州の木刻画は日本の浮世絵にも影響をおよぼしている。

 中華民国時代の木刻画は中国近代版画の父魯迅によって指導された。人間を変革すべき美術は正しくリアリズム芸術であるとして,白と黒だけの単純化された表現法と量産可能な複製とをもって,中国の近代化と独立を標榜した革命美術の創造と普及,啓蒙に貢献した。これは,ドイツのK.コルビッツの農民戦争に取材したエッチングから強烈な印象を受け,啓示を得たことと関係するであろう。1936年,病床につきながら魯迅は《コルビッツ版画選集》を出版している。彼の木刻運動において特筆すべきは,日本の内山完造と弟の内山嘉吉の2人である。1931年,内山嘉吉を請じて,上海において木刻講習会をひらき,革命美術の創造運動を深めていった。

 中華人民共和国では毛沢東主席が1942年延安の魯迅芸術学院において文芸について講じた《文芸講話》に示された精神によって,魯迅の木刻運動を高く評価するとともに解放軍や農民,労働者等の創作活動が盛行し,業余作家が新中国建設のため木刻画運動を推進した。現代の版画界には多色刷版画も生産されている。
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