精選版 日本国語大辞典 「スタイン」の意味・読み・例文・類語
スタイン
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカのユダヤ系詩人,小説家。彼女は東部の大学を出て,1902年パリに渡り,しばらくあとで同居するようになった女友達兼秘書のアリス・B.トクラスとともに,おもにパリ,第2次大戦後は南仏で一生を過ごし,講演旅行のほかはアメリカに帰ることがなかった。兄リオとともに,当時まだ有名ではなかったセザンヌを収集したのを手はじめに,以後親交のあったピカソに傾倒,彼を中心とするキュビスム(立体派)の諸家やH.マティスの作品などを,当時の誰よりも早く認めて収集した。そうした作品を壁一面に掛けた彼女の家は,長い間パリ在住の前衛芸術家や作家のサロンとなり,彼女の新しいものの見方,機知などが,多くの芸術家を引きつけ,育てた。なかでも彼女の散文から最も多くを学んだのは,まだ若い無名作家だったヘミングウェーである。フローベールの《三つの物語》(1877)とセザンヌの婦人像の影響下に書いたという小説《三人の女》(1909)で,彼女は徹底的にアメリカ口語を用い,句読点の破格使用と単純な文章の重複からなる個性的な文体を確立した。以後それは《やさしいボタン》(1914),《アメリカ人の成立ち》(1925)などで,さらに破格の度合を高め,文学的抽象性の極限を追求した。その他《3幕からなる4人の聖者》(1934)ほかのオペラ,評論,詩,劇,肖像と称するスケッチ,トクラス嬢の名を使って書いた自叙伝《アリス・B.トクラスの自伝》(1933)などがある。
執筆者:金関 寿夫
イギリスの探検家,考古学者。ハンガリーに生まれ,ドイツ,イギリスで学んだ。1904年イギリスに帰化。ローリンソンの推輓で,インド(現在のパキスタン)のラホールの東洋語学校の校長に着任した。中国領中央アジアを,インド政庁の援助の下に1900-01年,06-08年,13-16年の3次にわたって調査した。その旅行記ならびに調査報告は重要で,特にアスターナや敦煌の調査は有名。その間ガンダーラの仏教寺院のほか,32-36年のイラン,38-39年にはシリア,ヨルダンよりイラクに至るローマ長城の調査を行う。43年,長らくイギリスに門を閉ざしていたアフガニスタンに入国し,そこで風邪のため世を去った。生涯を中央アジアの探検ならびに考古学的調査にささげ,ヘディンとともにその功績は忘れることができない。
執筆者:岡崎 敬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アメリカの生化学者.ハーバード大学で化学を学び,1938年コロンビア大学で学位を取得.その後,ロックフェラー医学研究所(現ロックフェラー大学)のM. Bergmannのもとで,タンパク質の構造に関する研究に従事.第二次世界大戦中は毒ガス防御の研究に動員された後,研究所に戻りS. Moore(ムーア)との共同研究を再開した.1952年同研究所教授.Moore,D. Spackmannとともにイオン交換クロマトグラフィーを開発し,ウシの膵臓リボヌクレアーゼAのアミノ酸配列順序を解明した(1960年).この業績で,1972年Mooreとともにノーベル化学賞を受賞.晩年はギラン-バレー症候群で四肢に障害をもちながら研究を続けた.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
1862~1943
イギリスの探検家,考古学者。ハンガリーに生まれ,アフガニスタンで死去。1904年にイギリス国籍を取得。1887年にインドに渡り,東トルキスタンを中心に4回調査し,知られざる文物を西欧にもたらし,学界が中央アジアの古代文明に注目する大きな契機をつくった。敦煌(とんこう)文書の持ち出しもその一つ。イラン調査も行った。報告書に『古代ホータン』『セリンディア』『内陸アジア』など。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
シュタインをも見よ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…中国の西域経営において漢代に僮僕校尉,西域都護府下にあり,北魏では焉耆鎮,唐では安西都護府下の安西四鎮の一つであった。1906年にグリュンウェーデル,08年にスタイン,09年にオルデンブルグ,28年に黄文弼が考古学調査を行い,とくにスタインは焉耆県南西13kmの都城址バグダードシャフリを唐代焉耆都城に比定した。その西の山寄りに仏教寺院址が群集し,その北東山腹に小規模な石窟寺院が残る。…
…これを象形した文字が册(策)で,結びひもを編と呼ぶ。 漢簡を最初に発掘したのはイギリスのオーレル・スタインで,1907年(光緒33)に彼の第2次中央アジア探検において,甘粛省敦煌の北方に残る漢代の遺跡から700余点を得た。現大英図書館に存する敦煌漢簡で,フランスのÉ.シャバンヌにより釈読され,中国の羅振玉,王国維にも《流沙墜簡》の研究がある。…
…現況の各城壁や建築地が上の歴史に照らし,どの時期のものか比定は困難であるが,内城中央で北涼の沮渠(そきよ)安周造寺功徳碑やマニ教壁画,ウイグル文仏典が出土している。都城外側にある墓地は,北東方のカラホージョ村以東,北西のアスターナ村以北,南東方の3区に墳丘を伴って営造され,数基ないし数十基を垣で囲む同姓の墓園から成り,その一部は1915年にスタインによって発掘され,1959‐75年には晋代から唐代に至る400基が発掘された。墓誌,紙本・絹本の絵画,俑(よう),錦綾,鞋靴(あいか),衣物疏,地券,功徳録,契約文書,紙棺,枕衾(ちんきん),冠帯などが出土し,またビザンティン帝国やササン朝ペルシアの金・銀貨が,遺体の口に含ませたり,両眼を覆う含銭・覆眼といった独特の風習に使われて出土した。…
…北方を境する火焰山の一峡谷中にあり,カラ・ホージョ東方に位置する。1898年D.A.クレメンツ,1907年A.グリューンウェーデル,16年M.A.スタインが調査し,A.vonル・コックや大谷探検隊も調査したが,一部が知られるにすぎない。石窟ばかりでなく,断崖の空地を利用して,泥煉瓦による寺院も構築された。…
… 敦煌の名がとくに有名になったのは,県城の南東17kmにある鳴沙山東麓に仏教の大石窟群,敦煌莫高窟があり,今世紀の初頭に,その第17窟,蔵経洞とよばれる仏洞から大量の経巻や古文書,書画の類が発見され,世界の東洋学および仏教美術の研究に寄与したためであった。1907年(光緒33)以来,イギリスの探検家M.A.スタインとフランスの東洋学者P.ペリオ,日本の大谷探検隊などがもたらした古文献や書画が,南北朝・隋・唐時代の中国の社会経済史や古文書学,仏教あるいは美術や俗文学(変文)といった研究に刺激を与え,活発ならしめた貢献は,確かに特筆に値する。それとともに,スタインが,1906年から08年にいたる第2次中央アジア探検において,敦煌付近の長城の遺跡から辺境守備隊関係の漢代木簡点を発見し,13年から15年にいたる第3次探検において同じく敦煌付近で166点の漢代木簡を発見したことの学術史上の功績を看過してはならない。…
…1900年(光緒26),道士王円籙が第17窟に封蔵されていたおびただしい古写本,古文書,絵画類を発見した。当初はほとんど関心を呼ばなかったが,07年にイギリス探検隊のスタイン,08年にフランスのペリオが,それぞれ大量に買い取って本国へ持ち帰ったことから,世界の学界の注目を集めるようになった。10年に清国政府は残余の漢文文献を北京に運ばせたが,その後に訪れた大谷探検隊,ロシアのオルデンブルグ,第3次探検のスタインは,さらに若干点を取得した。…
…2~3世紀の精絶国に比定される。1901年M.A.スタインにより発見され,その後を含めて3度調査された。さらに59年,新疆ウイグル自治区博物館により再調査された。…
…一方,5~6世紀の断絶を経て吐蕃が進出,そのタリム盆地経営の基地として重要な役割を果たした。遺跡は1907年,14年の2回にわたるM.A.スタインの調査で明らかになった。ミーラーンは吐蕃期の基地として重要な意味をもつほか,とくにタリム盆地における初期の仏教活動を証拠だてるミーラーンII,III,Vなどの寺院跡が注目される。…
…また簡面をカバーし,その表面に宛名を書くものを検,同じものを二分して別に保持し,必要なときにつき合わせて証拠に使うものを符,品物につける鉄道荷札のようなものを楬(けつ),旅行者の身分証明書を棨(けい)というなど,使用目的による名称もある。中国木簡の出土は1901年にA.スタインがタクラマカン砂漠中のニヤ遺跡で晋簡を発掘したのに始まるが,彼はそれ以前にカローシュティー木簡を発見している(カローシュティー文書)。20世紀前半には西欧人の中央アジア探検によって中国西辺のフィールドにおいて発掘され,スタインの敦煌漢簡,楼蘭晋簡,S.A.ヘディンの楼蘭晋簡,居延漢簡などが有名で,なかでも内モンゴルのエチナ発見の居延漢簡は1万点をこえ,木簡研究の中心課題である。…
… 4世紀末にこの一帯を通過した法顕の記録するところによれば,当時クロライナには小乗仏教を奉ずる国王と4000人の仏僧がいたことが知られ,この僧の数からしても,かなりの都市に成長していたことが推定される。また20世紀の初頭,A.スタイン,S.ヘディンらがこの鄯善王国領内の砂に埋もれた諸遺跡(ニヤ,エンデレ,クロライナ)から発見した782点にのぼる〈カローシュティー文書〉によって,3~4世紀の鄯善王国では,公用語として,西北インドの俗語であるプラークリット語が使用され,クロライナに居住した〈大王,王中の王,……〉を中心にかなり強力な中央集権的な政治体制がとられていたことが知られる。プラークリット語の使用は,当時この地域に,かなり多数のインド系の住民が居住していたことを示唆するものである。…
※「スタイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
1/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
12/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新