東亜連盟(読み)とうあれんめい

改訂新版 世界大百科事典 「東亜連盟」の意味・わかりやすい解説

東亜連盟 (とうあれんめい)

石原莞爾かんじ)の唱えた日中提携の理論。東亜連盟という語は1933年,満州国協和会の目的に見られるが,日中戦争の長期化と日本の国力消耗を憂慮した石原が,中国民族運動の高揚に触発されて宮崎正義らと38年末具体化した。それは〈国防共同,経済の一体化,政治独立〉を条件として,日本と中華民国および〈満州国〉が手を結ぼうという趣旨の理論であった。3国間の政策の一致ないし一部の国家機関の共同により日中両民族の対立を提携に転換させることで,戦争の速やかな終結をはかることに当初の主眼があった。近衛文麿首相の〈東亜新秩序〉声明を背景に,39年10月,木村武雄東方会系の農民運動家や和田勁ら満州国協和会系の人々を集めて東亜連盟協会を設立し,和平気運促進の運動を始めると,日本国内等に十数の支部ができただけでなく,汪兆銘の〈南京政府〉もみずからの立場を基礎づける理論として,東亜連盟論を積極的に採用した。しかし,石原がしだいに同論の主眼を日中和平の実現にでなく,〈世界最終戦争に必勝の態勢〉をという主張に移すようになると,運動の担い手の多くが脱退した。また,41年近衛内閣が〈皇国主権晦冥かいめい)ならしむるおそれある〉として,東亜連盟論を禁止し,同協会の活動を制限した。しかし,同年予備役となった石原は公然と〈最終戦争〉をめざす運動を指導したため,東条英機内閣圧迫を加えた。その結果,42年思想団体東亜連盟同志会と改組し,和田を代表とした。石原は以後も個人的活動を続けたが,積極的参加者は少なく活動範囲も限られていた。46年GHQ覚書によって解散させられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東亜連盟」の意味・わかりやすい解説

東亜連盟
とうあれんめい

石原莞爾(かんじ)の指導のもとに石原構想の実現を目ざした団体。正式名称は東亜連盟協会であるが、月刊機関誌『東亜連盟』によりこれが通称となった。1939年(昭和14)10月、木村武雄(たけお)らにより東京で創立され、翌年には会員数1万5000人、機関誌約3万部を発行するに至り、中国でも汪兆銘(おうちょうめい)、繆斌(みょうひん)らがこれに呼応する動きをみせた。石原の構想は、日本をアジアさらに世界の盟主とし、そのための「東洋文明圏」を結成するというものであった。東亜連盟はその一階梯(かいてい)として、日本、「満州国」、中国の一体化を目標とし、王道主義の統治を説く一方、「国防の共同」「経済の一体化」を図り、アメリカとの世界最終戦争に備えようとした。そのため日中戦争の収拾を図り対米開戦に反対したが、東条英機(とうじょうひでき)内閣の圧迫を受けて勢力を失った。46年(昭和21)1月、占領軍により解散させられた。

[佐々木隆爾]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東亜連盟」の意味・わかりやすい解説

東亜連盟
とうあれんめい

石原莞爾を指導者とする右翼的国家社会主義団体。日本,満州,中国による「東亜連盟」の結成を構想,「王道主義」を指導原理として,国防の共同,経済の一体化,政治の独立,文化の交流を掲げ,1939年東亜連盟協会として組織化された。月刊機関誌『東亜連盟』を発行,国内会員約 10万といわれた。東条英機に解散を強要され,42年9月東亜連盟同志会と改称し「昭和維新」を目指したが,敗戦後,連合軍総司令部により解散させられた。 52年旧東亜連盟の復活がはかられ再び東亜連盟同志会が結成された。

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百科事典マイペディア 「東亜連盟」の意味・わかりやすい解説

東亜連盟【とうあれんめい】

石原莞爾(かんじ)の唱えた日中連携の理論。実践団体として1939年に結成された東亜連盟協会をもつ。東亜新秩序,日本・満州・中国の大同団結をスローガンとしたが,石原が公然と〈世界最終戦争〉を目ざしたため東条英機内閣は東亜連盟論を禁止,1942年に東亜連盟同志会と改組。1946年解散。

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