中野正剛を盟主とする国家主義政党。東方会の活動は1933年に当時国民同盟代議士であった中野が友人・同志を集めて国策研究団体を組織し,その成果を《国家改造計画綱領》として公表したことにはじまる。中野とその同志は35年末に国民同盟を脱退するが,それに伴って東方会も政治結社に改組され,二・二六事件後に再出発する。機関誌《東大陸》を刊行。〈アジア・モンロー主義〉的な対外政策と,〈生産力・軍事力の拡張〉と〈国民生活の安定〉を両立させうる〈統制経済論〉が東方会の基本路線であった。日中戦争に対してはこれを日本と英ソの代理戦争と解釈し,〈東亜新秩序〉〈世界新秩序〉の樹立のため独伊と提携して英米ソと対抗すべしと主張した。日米開戦前には〈南進断行〉を要求し,終始一貫戦争の拡大を主張しつづけた。東方会は初めは10名内外の代議士を擁する小議員政党にすぎなかったが,大衆運動への志向性をもち,人民戦線事件後みられる旧左翼活動家の流入によりその志向性はより強まった。39年初め全体主義新党結成をめざして計画された社会大衆党との合同工作が失敗してからはますますその傾向は強まり,対外硬の大衆運動を活発に展開した(最盛時1940年末で,約3万人の党員数)。大衆集会での党首中野の熱狂的演説,制服の着用,軍隊式行進といった運動スタイルにナチスの強い影響を見いだしうる。中野の大政翼賛会入りにより一時解散するが,再び復興され,日米開戦後は戦争遂行方法をめぐってしだいに反東条的色彩を強めていった。中野の反東条工作が原因となって大弾圧をうけ(1943年10月),党首中野の割腹自殺により組織は壊滅した。
執筆者:永井 和
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中野正剛(せいごう)が主宰した国家社会主義系右翼政党。最初は1933年(昭和8)に思想団体として発足したが、36年政治結社に改組。さらに思想団体振東社、政治結社東方会、思想団体東方同志会と二転三転した。36年の綱領五条は、「全体主義に則(のっと)り、階級的特権を廃し階級闘争を排除すべし」とある。労働者、農民、中小企業者などを組織対象に、ナチスばりの制服で運動した時期もあった。43年10月東方同志会と「勤王まことむすび」の両会に不穏計画ありとして、両団体で100余名逮捕され、中野の自殺で壊滅的打撃を受けた。44年3月23日に東方同志会は解散したが、敗戦後一時東方会として復活したこともある。同人に三田村武夫、木村武雄、進藤一馬(しんどうかずま)などがいた。
[大野達三]
『山本彦助著『国家主義団体の理論と政策』(『思想研究資料特輯』第84号所収・1941・司法省刑事局/『現代史資料23 国家主義運動3』所収・1974・みすず書房)』
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昭和前期の政党。中野正剛の主宰する思想団体を1936年(昭和11)政治団体に改組したもので,衆議院には最大時12議席をもった。はじめ立憲民政党以来の中野系代議士を中心とし,38年頃から労働・農民運動指導者を吸収,全体主義的国民運動を標榜した。39年社会大衆党との合同を試みて失敗。新体制運動に積極的に参加したが,41年に大政翼賛会を離脱。その後東方同志会と改称し,43年には東条英機内閣打倒運動を展開。中野の検挙・自殺後,一斉検挙で壊滅した。
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