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中国,湖北省南部の県。武漢の西およそ200kmの長江(揚子江)の北岸にあり,北は河南,陝西へ,西は四川に通ずる交通の要地を占める。春秋時代,楚の文王が定めた国都の郢(えい)はその北郊にあり,春秋戦国を通して臨淄(りんし),邯鄲,大梁や咸陽などと並ぶ大都市として繁栄を誇った。秦・漢には江陵県がおかれて南郡の治所となり,唐・宋は江陵府,明・清は荆州府であった。その間,南朝梁の元帝は一時ここに都をおき,また五代のときには十国の一つ荆南の高氏もここを都とした。しかし1896年(光緒22)に南8kmの沙市が通商港として開かれてからは,以前ほどの繁栄はみられなくなった。また江陵には楚都郢の故城である紀南城の遺跡をはじめ古墓も付近に多数存在し,今日までにいくつかの考古学上注目すべき発掘成果をあげている。その一つは1965年の望山1号,2号および沙塚1号の戦国楚墓の発掘である。この3墓からは700点以上の出土品があり,その中には越王句践の剣をはじめ彩絵木彫のついたて,木彫の漆瑟,金銀錯の銅器,絹織物,刺繡など当時のすぐれた工芸品が数多く含まれている。そのほか望山の両墓からは約30枚の竹簡が発見された。現在までのところ竹簡の遺物としては最古に属し,墨書された2000余字は楚の文字研究には欠かせない一等資料である。また73年以後には紀南城内の鳳凰山一帯で多数の漢墓が発掘され,8号,9号,10号の3墓からは総計434枚の簡牘(かんとく)が発見された。墓中から出土する簡牘はほとんど書籍かもしくは副葬品の品名と数量を記したいわゆる遣策(けんさく)のいずれかであるが,10号墓からは郷村の戸口や田土の数,徭役や徴税の記録と考えられる内容のものが含まれており,史料としてたいへん貴重である。また75年に発掘された鳳凰山168号墓は馬王堆についで完全な男性の死体が発見されたことで有名であるが,同墓からは漢代の旅券の書式をそっくりまねてつくられた冥土行きの珍しい旅券も発見されている。考古発掘にとくに関心が寄せられている地方の一つである。
執筆者:永田 英正
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…五代十国の諸国,とりわけつねに複数政権が併存した江南の十国では,政権を維持するために,いずれも領内の農業開発,産業振興,あるいは他国との交易や南漢のように南海貿易に努めた。荆南の江陵には当時最大の茶の集積市場があって諸国の商人が遠方からも集まったし,南唐の海岸一帯は最大規模の産塩地であった。湖南,江西ではこのころ新たに絹生産が始まり,福建,広東の木綿栽培は楚に移入されて木綿製品が生産されるようになった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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