刺繡(読み)ししゅう

改訂新版 世界大百科事典 「刺繡」の意味・わかりやすい解説

刺繡 (ししゅう)

〈刺〉は針で縫うこと,〈繡〉は衣に采(いろどり)を施すこと,つまり,糸を針にとおして布地の表と裏から刺し,布の表面または表と裏の両面に,糸で絵画的な図柄文様などをいろいろな技法で刺しあらわすことで,狭義には色糸刺繡を指し,刺繡の中で最も基本になる技法である。英語でエンブロイダリーembroidery,ニードル・ワークneedle workなどという。そのバリエーションには白糸刺繡,黒糸刺繡,シャドー刺繡,キャンバス・ワークなどや,糸の代りにリボン,コード,ビーズ,スパングルなどを使う刺繡,布の代りにすきまのあるレース状のものに刺すネット刺繡,チュール刺繡などがある。また広義には,土台布を変化させて効果を出すドロン・ワークカットワークスモッキングキルティングをはじめ,布で図柄をあらわすアップリケなども含まれる。

 刺繡は多くの種類が世界各地にある。地域別に分類すると,日本刺繡,フランス刺繡,スイス刺繡,カシミール・ワークなどのように各地名で呼ばれるものがある。素材や技法の関係で分類すると,布に糸で刺繡するもの,布に代わる特殊な土台に糸で刺繡するもの,布に特殊な材料で刺繡するもの,布に布で図柄をあらわすものなどになる(表参照)。技法の種類を表現形式,素材,技法,時代などの各要素で分類すると,表現形式では土台布の織り目との関係で,布の上面に写した図案線に沿って布目とは関係なく自由に刺す自由刺繡と,土台布の織り目に沿って制約を受けながら刺す制限(区限)刺繡とになる。また土台の地布との関係では,布の上面に浮かせて盛り上げるように刺し,図柄をより高く盛り上げる方法と,土台地の中に刺し沈める方法,土台布の織り糸を抜いたり,カットしたりして透かしを作る方法などに分類される。素材を基盤にして分類すると,布類は繊維・織り方別に,糸は色彩・素材を含む種類別になる。その他技法から名称がつけられたもの,時代名称で呼ばれるものなどもある。このように多方面から分類すると,たとえば,色糸刺繡は東西を問わず世界各地で広く使われる自由刺繡で,布の表面に刺繡糸で盛り上げるように刺し,糸の素材によって絹糸刺繡,毛糸刺繡,グラス刺繡などとも呼ばれ,別名ステッチ・ワークstitch workともいう。以上のように,一つの技法でもいろいろな分類に属し,また同じ技法でも時代,地域,素材などの違いで別の呼称にもなる。

刺繡の起源は明らかではないが,縫針を魚や動物の骨から作り,植物や動物の繊維で生活に必要な衣類などを縫い合わせて作ったことから,しだいに加飾する刺繡の技術が発達し,古くから行われていたものと思われる。

刺繡は古代オリエントを中心に発達したらしく,前3000年ころのエジプトの王墓からビーズ刺繡の遺物が出土している。前2000年ころには刺繡の技法が完成していたようで,古代アッシリアやペルシアの浮彫彫刻の人物の服飾の文様は刺繡によるものと思われる。古代ローマの貴婦人たちも刺繡を施した衣服を着装しており,金属製の針,指抜き,錐(きり),ピンセットなどがポンペイの遺跡から発掘されている。また,前1000年ころのパッチワークやアップリケの技術による葬儀用のテントや天幕もある。中国では鎖繡(くさりぬい)(チェーンステッチ)の印痕のある泥土が西周時代中期(前950ころ)の墓から発掘されている。前400年ころのギリシアの遺物には,刺繡糸が退化し,ライオンの構図の針穴だけが残っているリネンの断片(アッティカ出土)や,ウール刺繡による墓室装飾用壁掛けケンタウロスの断片があり,アルタイの古墳ではフェルトに刺繡とアップリケを施した馬の鞍掛けや,アップリケの墓室用壁掛けなどが見られる。鎖繡を用いたことは前200年ころの中国の文献に記されており,ノイン・ウラ出土の刺繡広山錦などが現存する。前100年ころのフン族の顔の刺繡壁掛けや,バックステッチでキルティングしたスキタイの敷物などがある。以上の刺繡に使われた地布は,麻・絹・毛織物などで,毛糸の刺繡やアップリケ,パッチワークの技法も使われている。

ヨーロッパでは,古代オリエントで起こった刺繡が二つの流れに分かれて発展し,600年ころには技術が再完成をみた。ローマ人からビザンティン帝国,キリスト教会に引き継がれ,教会刺繡として盛んになり,教会内の掛け布類や宗教服,宮廷服などの装飾に用いられ,権威の象徴として金・銀糸も使われた。また,一般の貴婦人たちは教養の一部として技術を習得するようになり,やがて刺繡職人のギルドも結成されて盛んに行われ,宗教界の刺繡は民間にも広がっていく。他方,古代オリエントからエーゲ海の島々を経て東欧,北欧へと伝わった刺繡技術は土着の刺繡に影響を与えた。

 11世紀初めのフランスの《バイユーのタピスリー》は,ノルマンディー公爵ギヨームがイギリスを征服する物語を幅50cm,長さ約70mのリネン地に10色以上の毛糸で刺繡する。形式は北欧風,技法はオリエントのイスラム系で,芸術性の高い作品である。1100年ころには金糸を使用するイスラム刺繡が盛んで,当時の代表的なものには,1116年スペインのアルメリアで作られた聖トマス・ベケットの法衣,1134年,シチリア島のパレルモで作られた皇帝戴冠式のマントなど,絹地に金糸や毛糸でチェーンステッチなどを刺し,真珠や宝石をはめ込んだ豪華なものがある。1200年ころには糸抜き細工のドロン・ワークが起こり,1300年ころには白糸刺繡なども加わった。当時のドイツには,《サムソンとデリラ》の物語をリネン地に毛糸で刺繡した《マルテラーの壁掛け》がある。1400年ころオランダで作られた聖マリアのマントは教会のミサ用式服で,オールヌエ(総繡(そうぬい))の手法が使われ,1460年,スペインのカタルニャで作られた祭壇おおいは絹糸でオールヌエにした刺繡画で,精巧な技術と表現力が非常に優れたものである。

ヨーロッパではようやく一般庶民にも普及し,とくに服飾手芸は最盛期を迎えた。フランス宮廷がヨーロッパの流行を支配し,貴族や富裕者は色絹糸や金・銀糸で豪華に刺繡した衣装を競いあい,たびたび奢侈(しやし)禁止令が出されるほどだった。そのためか当時黒糸刺繡,カット・ワークなどの新技法が起こる。やがてフランス革命やイギリスの産業革命などを経て,衣服の形態が変わり装飾が少なくなって,刺繡装飾も退化したが,室内装飾品には依然として行われた。しかしそれも19世紀末のイギリスで起こったウィリアム・モリスの提唱する美術工芸運動の影響で,装飾形式が変化していった。
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美しい絹糸を用いた繡の精緻な漢代の遺例が知られ,それまでの長い伝統をうかがわせる。長沙馬王堆(まおうたい)1号漢墓出土の染織品中には,40点におよぶ刺繡服飾類が見いだされた。そこに見られる技術は,1例を除くすべてが鎖繡(くさりぬい)を中心とし,わずかに細線に返し繡を見ることができる。文様によって信期繡,長寿繡,乗雲繡,雲文繡などと区別され,きわめて巧緻(こうち)な技を示すものと,劣るものとが識別される。また棺飾には全面を平繡(ひらぬい)で詰めた文様が見られるが,これは当代刺繡には,従来発見されていなかった。平繡を別として,これらには繊細でしかもすばやい動きを示す漢代の文様と同趣の繡技が見られ,細やかで速度感のある練達した技術は,すでに一つの頂点に達していたことをうかがわせるものがある。

 唐代は古典としての完成が指摘される。繡仏(しゆうぶつ)という特殊な例ながら,《刺繡釈迦説法図》(奈良国立博物館)は《勧修寺繡帳》の名で知られ,縦200cm,横105cmの大作で,霊山における釈迦説法の情景をあらわす。製作地について日・中両説あるものの,刺繡の技術としては盛唐の様風を示すと考えてよい。鎖繡を中心とし,相良繡(さがらぬい)を加えた比較的単純な繡技であるが,厳しく撚りあげた堅固な糸質と,生地を覆いつくす繡に,旺盛・重厚で圧倒するような力強さがうかがわれる。以後はこの骨格のたくましい完成度の高さが,どのように変化するかの歴史と考えてよい。宋代の繡はきわめて細緻で写実的な趣のあったことが,文献(《筠軒清秘録》ほか)によって知られる。遺品は重源が北宋より請来したと寺伝にいう刺繡袈裟を屛風に貼付した例(知恩院)がある。南宋は下らないと考えられるが,糸遣い,繡技ともに柔らかく,文献にいう宋繡の細密さとは異質の感を与える。ただ銀箔糸の使用が注目され,比較的淡白な色糸を用いた穏やかな繡技とともに,南宋水墨画などと同様の美意識が見られる。元人の繡は針目が粗く,糸ならびも密でないといわれる。しかし愚極智慧の元貞元年(1295)の賛がある《刺繡観音像》(京都国立博物館)では,特殊な金箔糸を息づまるように綴じあげて観音の着衣をあらわす。岩座などは,宋繡の特色とした髪のような針によったと考えられる細糸で,丹念に繡われている。元代の賛があるものの,その図様からも,むしろ宋繡の実際を示すものと考えられる。

 繡の流れは時代が下るにつれ,さらに緻密よりも磊落(らいらく)・平明に向かう。明代の繡技は,京都や地方の寺院に伝わる打敷(うちしき)に見られる。打敷は僧の座す高座や仏壇などの敷物であるが,日本では金襴など舶載の裂(きれ)が用いられ,明繡によるものは主として草花・鳥獣を主題に構成され,平糸を豊かに引き延べた大胆なものである。実際の花鳥を意識しながら,しかもとらわれることなく平繡を中心として仕上げ,装飾的に色糸を扱うなど刺繡ならではの世界をあらわす。清代は一転して細緻を特色とする。繡技も複雑に展開,写生的な視覚が中心となり,鮮麗な色彩とともに引き締まった鋭さを示す。

現存する最古の例は《天寿国繡帳》(622,中宮寺ほか)で,橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が亡き夫,聖徳太子を追慕して采女(うねめ)たちとともに作製したもの。専門家によるものではないが,すでに和様ともいうべき柔らかな糸遣いが見られる。奈良時代には唐代刺繡の影響による,重厚で厳しい繡仏が行われたと考えられる。しかし当代の一般的な繡は,正倉院宝物中に見いだされるように,平糸の光沢を十分に生かした穏やかな繡技が中心であり,唐様文化の時代にあって,和様の特色を示す例が見られることに注目したい。平安時代の刺繡の例は現存しないが,繡仏はいうまでもなく,一般世俗の場において刺繡が盛んに行われたことは文献に明らかである(《栄華物語》ほか)。女房の着衣文様や洲浜などを据えた打敷に,歌絵(うたえ)や葦手文様が繡いあらわされたという。文字繡などでは,筆勢や連綿を生かした繡技が見られたことであろう。その後どのように変化するのか不明であるが,鎌倉時代のわずかな遺例(滋賀県兵主(ひようず)大社蔵《刺繡三昧耶幡》)では,針足の短い引き締まった繡技が見られる。しかし,大勢は近世初期の繡が示す特色へ向かったものと考えられる。

 享徳3年(1454)の墨書をもつ舞楽装束(金剛峯寺蔵)では,すでに平糸を柔らかく用いた桃山時代の繡の特色が見られる。この平糸を中心とした繡は,《天寿国繡帳》以来の日本の伝統的な技術といえるが,近世におけるこの特色は,直接的には明繡の影響によるものといえよう。平糸を太く用いて平繡とし,たとえば一つの花や葉を2色以上で大胆に繡い分ける華やかな装飾的処理を示す。また絹帛の裏面に糸の出ない裏抜き繡,すなわち〈わたし繡〉と呼ぶ特殊な繡技を用いる。ただし明繡では文様の地間を金糸で繡い詰める例が多いが,桃山繡では金糸はいっさい用いられず,地間には金銀箔を摺って息づまる感を和らげ,質感の変化を効果的に目指している。針足長く引かれた文様は,特別の場合を除いて,葉脈や蕊(ずい)を繡うことによって糸を押さえる。また色糸には紅糸濃淡を圧倒的に多量に用いる。こうした摺箔との併用による,いわゆる繡箔(ぬいはく)は,慶長年間(1596-1615)に最盛期を迎える。

 江戸時代初期になると一転して小さな文様が集合し,暗い色調で処理される。小文様をこきざみに繡うが,基本的には前代以来の気宇の大きな繡技の延長上にあることは明白である。寛文年間(1661-73)ころになって,江戸時代特有の刺繡が完成すると考えたい。糸の太さ・密度,裏面に糸の出ることによって表面の糸が引き締められ,表面に豊かな光沢が見られる。この特色は元禄期(1688-1704)にも受けつがれ,さらに密度高く用いられた平糸は,盛り上がるような厚みを見せる。金糸の駒繡が多用され,平繡,さし繡,まつい繡などが中心で,種類は多くない。江戸時代後期の特色は,きわめて写生的な繡技に向かうことであろう。円山四条派系の下絵画家による場合はとくに顕著で,各種の繡技を駆使しながら,針と糸によって帛面に草花の生命をも再現しようとする意欲が感じられる。

 幕末・明治期に至って,日本の刺繡は洗練細緻の極を迎える。近代を感じさせる理知的な処理は,たとえば元禄初期の感覚的な趣ときわめて対照的である。一方,額絵や屛風,壁掛けなど鑑賞の対象となる絵画的な作品が,作家の制作として行われ喜ばれたが,絵画の亜流にすぎず,刺繡の本質を追求したものとは言い難いものがある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の刺繡の言及

【染色】より

…この制度は染色史のうえでも看過できない意味をもっている。 一方,仏教の隆昌に伴って寺院の荘厳(しようごん)に染織品も利用されるようになり,刺繡(ししゆう)で仏像や仏の世界を表すことも行われた。622年(推古30)の《天寿国繡帳》はその一例で,わずかな断片として現存するにすぎないが,色糸の色相は淡黄,濃黄,真紅,淡緑,淡縹,紫,黒,白などを中心に10色以上に及んでいる。…

※「刺繡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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