ソウル(その他表記)Sǒul

デジタル大辞泉 「ソウル」の意味・読み・例文・類語

ソウル

大韓民国の首都。漢江下流にある。漢城府と称して李氏朝鮮500年の首都。1910年韓国併合により朝鮮総督府が置かれ、京城けいじょうと呼ばれた。1945年解放でソウルと改称。翌1946年特別自由市に、1949年特別市になる。景福宮など李朝時代の史跡が多い。人口、行政区1003万(2008)。
[補説]中国語では「首爾」(簡体字で「首尔」)と記す。

ソウル(soul)

《「ソール」とも》
霊魂。魂。心。
ソウルミュージック」の略。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ソウル」の意味・読み・例文・類語

ソウル

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] soul )
  2. 魂。こころ。霊魂。
    1. [初出の実例]「哲学的に考へ来れば、宇宙は自然と霊心(ソール)との二者より成立り」(出典:ヱマルソン(1894)〈北村透谷〉二)
  3. ソウルミュージック」の略。
    1. [初出の実例]「私たちのバンドは何でも演奏した。ディキシーだ、ソウルだ、モダンだと」(出典:さらばモスクワ愚連隊(1966)〈五木寛之〉二)

ソウル

  1. ( [朝鮮語] Sə-'ur 首都の意 ) 大韓民国の首都。朝鮮半島の中央部、漢江下流の盆地に位置する。一三九四年、李朝の王都となり、漢城と称した。一九一〇年(明治四三)から四五年(昭和二〇)までの日本支配の間は京城と称し、解放後、ソウルと改称した。政治・経済・文化・交通の中心で特別市制がしかれている。昌徳宮・南大門などの史跡・名勝に富む。外港に仁川がある。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ソウル」の意味・わかりやすい解説

ソウル
Sǒul

大韓民国の首都。朝鮮語でソウルは首都の意。人口1028万(2003)。朝鮮半島の黄海側,中部西海岸寄りにあって,京畿湾に注ぐ漢江下流の盆地に位置する。旧市街は四方を山に囲まれ,夏の平均気温は25.4℃,冬の平均気温は-4.9℃と年間温度差が30℃を超え,内陸性の気候を示している。北と南に,それぞれ北漢山(836m)・北岳山と,南漢山・冠岳山(629m)などがそびえ,また,中央部を漢江が東から西へと流れて自然の要害をなす。李朝の太祖,李成桂が1394年に,ここを王都に定めて以来500年以上にわたって,政治・経済・文化・軍事・交通の中心地となり,現在も特別市として大きな位置を占める。

ソウルの歴史は先史時代にさかのぼり,南東郊外の漢江の左岸地域には,旧石器・新石器(櫛目文土器)・青銅器(無文土器)各時代の遺跡が残る。同地域の風納洞土城は,中国,魏の帯方郡治跡もしくは三国時代百済の都城と推定される。《三国史記》によると,そのころ慰礼城ないしは漢山,漢城などと呼ばれた。その周辺には,石村洞古墳群など百済前期の墳墓群が知られる。統一新羅時代に入ると,全国九州のうちの漢山州に編入されたが,景徳王代の8世紀の中ごろには,漢州に変わり,その付近を漢陽郡とした。京畿湾北部の開京(現,開城)に首都をおいた高麗時代には楊州と改められたが,その後,南京(高麗王朝の別宮がおかれた),漢陽府と変遷し,さらに李朝時代には漢城府と改称された。このとき首都として大きく発展したが,その名残りを故宮や城門にとどめている。
執筆者: 李朝時代,ソウルは漢陽または漢城と呼ばれたが,今でも中国では後者をソウルの正式呼称としている。遷都の理由は,すでに地徳の衰えた開京にとどまっていては繁栄できないとする風水説によったとされており,太祖自身風水にすぐれた土地を求めてあちこち旅したという。ソウルは周囲を山岳で囲まれた天然の要害であり,また南山を隔てた漢江により黄海および内陸方面への水運が便利な交通の要衝地であった。漢城は,四方が城壁で囲まれた城郭都市で,ソウル盆地を囲む山の尾根に沿って築かれた城壁の総延長は,18.5kmに達した。およそ20km2の面積を有する城内には,景福宮,昌徳宮,昌慶宮などの宮殿,李王家の位牌をまつる宗廟,景福宮へ通ずる大路沿いには官庁街が建設され,住民の消費生活をまかなう六矣廛(ろくいてん)(商店街)が六つの部門にわけて設けられた。住民(王族,官吏,商工人,奴婢)のほとんどが城内に定住したが,一部は城外に住んだ。城外一里までは漢城の管轄下におかれ,城内,城外をとわず京兆五部とよばれて,東西南北の四大門を通じて厳重な監視のもとに出入が許された。漢城の人口は初期の10万前後から李朝時代を通じて20万人前後に倍増した。李朝末期の大院君時代には,豊臣秀吉朝鮮侵略の際に焼失した景福宮の再建や行宮(別荘)として使用されていた徳寿宮の改築などが行われ,李朝最後の威容を誇った。

 1910年,日韓併合と同時に漢城は京城と改称された。京城は日本の朝鮮に対する植民地支配の拠点として,朝鮮総督府,朝鮮軍司令部,朝鮮銀行東洋拓殖株式会社などが設置される一方,京城を起点とする道路や鉄道網(京仁鉄道京釜鉄道)が整備された。赤レンガ造りの京城駅や朝鮮銀行,大理石や朝鮮の花コウ岩をふんだんに使った総督府の西洋式の建築物が,在来のソウル市内の朝鮮家屋を威圧するようになった。城内の道路が拡張され,城外に広がった市域の道路網を建設するために,東大門,南大門など一部を除く城壁の大部分が撤去された。南大門外の京城駅(現,ソウル駅)からは北部地方,嶺南(慶尚道)・湖南(全羅道)地方,京城の外港仁川へ鉄道が伸び,東大門外の清涼里駅は嶺東(江原道)・太白地域,元山方面への発着点となった。植民地時代の後半には,工業の発達もみられ,漢江対岸の永登浦を中心に繊維,食品,ガラス,若干の機械工業がおこったが,これらの工業は朝鮮の民衆の生活上の必要からではなく,日本の中国大陸への侵略を支援する兵站(へいたん)基地の建設という要請による側面が顕著であった。文化面では,日本の朝鮮統治の重要な側面である同化政策の一環として,教育が重視され,東京大学をモデルにして建物の配列の雰囲気までが似ていたとされる京城帝国大学(1924)をはじめ各種の専門学校などが設立された。また,1925年には南山中腹に朝鮮神宮が建てられ,参拝が強制された。しかし現実には,官庁や企業では幹部を日本人が独占するなど朝鮮人を差別し,南郊の竜山などに日本人町をつくって朝鮮人とはかけはなれた生活を営んだ。こうして京城は植民地統治の中枢としての機能が強まっていったが,朝鮮人の反発も大きく,高宗の葬儀を契機として1919年3月1日,鍾路街のパゴダ公園での独立宣言発表を皮切りに朝鮮全土に三・一独立運動が広まっていった。

 1945年8月日本の植民地支配から解放されると,京城はソウルと改称され,アメリカ軍政下に置かれた。46年京城は京畿道の管轄からはずれ,ソウル特別市に昇格し,同年10月従来の日本式町名を一掃して新しい洞名を採用した。48年に大韓民国が独立すると同時にその首都となった。北緯38度以北を領土として独立した朝鮮民主主義人民共和国も72年まで憲法上の形式的な首都をソウルとし,平壌を臨時首都と呼んでいた。1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると,ソウルは南北両軍の争奪の対象となり,著しく破壊された(この間,政府は釜山などに移転)。53年の停戦条約の調印をまって,ソウルは韓国の首都として再出発した。

ソウルの人口は日韓併合後急速に増加し,36年に60万人,42年には100万人を突破した。45年以後には海外(日本,中国)や北緯38度線以北からの人口流入がみられ,韓国政府樹立後の49年に144万に達した。朝鮮戦争後,ソウルへの人口集中はいっそう促進され,60年には245万人に膨脹した。60年以降,朴政権の工業化政策の進展によってソウルの人口膨脹がさらに加速した。70年に553万人に倍増し,80年には800万を超え,世界的な巨大都市に成長,韓国の総人口の20%強を占めるにいたった。このように増加する人口を収容するため,ソウルの市域が次々に拡張され,京城時代の134km2から1949年に268km2へ倍増,95年現在606km2であり,人口密度は1万7500人/km2ほどとなっている。市域は李朝時代の城内面積の40倍ほどになった。ことに漢江以南の江南地域の市域の膨脹は著しく,漢江辺には高層アパートがたちならび,漢江中州である汝矣(じよい)島への国会議事堂の移転やソウル大学校の冠岳山麓への移転(ともに1975)は,首都ソウルのイメージを変えるものでもあった。政府はソウルへのこれ以上の人口集中を防ぐために,工場や大学の分散による地方都市の充実,セマウル運動などによる農村振興政策を通じた農民の離村抑制などに努めているが,ソウルと地方都市の経済的,文化的隔差が大きく,容易にソウルの膨脹をとめられないでいる。例えば,1970年代初めにソウル市当局は河川敷や丘陵地に不法に住みついた住民のスラム(板子村(パンジヤチヨン)という)をソウル近郊に強制移転させ,人口88万9000(1995)の城南市をつくったが,住民の多くはソウル市に職場を得ている。

ソウルは区制がとられており,25区(1996現在)ある。かつては旧城内の中区・鍾路区が韓国の政治・経済の中枢を占め,中央官庁や主要企業の本社が集中していた。1970年代後半以降,まず漢江中州の汝矣島が副都心として開発され,国会議事堂のほか証券取引所,《東亜日報》その他の新聞社などが移転した。続いて,初めベッド・タウンとして開発された江南地域に多数の大企業が高層の社屋を建設し,旧城内地区に代わるビジネス・センターを形成するようになった。さらに,その南方地域に中央官庁のほとんどが移転し,新たに行政首都である果川市をつくるに至った。現在旧城内地域は全体として一つの商業センターとしての性格が強まっている。東西の極に位置する東大門(衣類中心)・南大門(衣類,食品)両市場は韓国の商品相場を左右するといわれ,卸売と小売が混在する独特の風景をみせている。東西方向の数本の道路沿いにおのおの特色ある商業地区が形成されており,北から南へ順に見ると,鍾路は伝統工芸品・書籍・病院,清渓路は金属・機械,乙支路は紙・家具,明洞(ミヨンドン)は美都波,新世界,ロッテなどの百貨店が周辺をとりまき,ファッション商品を中心に若者の町として有名となり,忠武路には電気機器商が集中している。江北の旧城外地域は住宅街の中に大学や高校などの教育機関が散在する文教地区となっている。その代表的な文教地区である西大門城外の新村には延世大学校梨花女子大学校などが集中しているが,地下鉄の開通(1983)とともに,商業地としても脚光をあびている。江北の住宅はおおむね一戸建てで,江南の漢江辺の高層アパート群と対照を見せている。江南地域には,総合運動場や,全国の主要都市へ直行する高速バスの発着場など,広大な敷地の施設がある。江南地域の永登浦区は仁川市まで連なる韓国最大の京仁工業地帯の一翼を占め,食品,繊維,化学,機械などの工場が立ち並んでいる。とくに九老洞の輸出工業団地は縫製加工品,電子機器,雑貨など韓国の主要輸出品を生産する工場が集中している。江北の旧城外地域の中でも旧城内と江南地域の中間にある竜山区は,全国鉄道網の基点であり,とくに嶺南・湖南方面への列車のターミナルであるソウル駅と,駐韓米軍や韓国軍の中枢部門が集中する独特の地域となっている。

 ソウルの旧市内には李朝500年の歴史的建造物と,李朝末期から植民地時代に建設された近代建築とが混在しているが,一方では70年代以降の経済成長のもとで都市景観の変容と市域拡大がもたらされた。李朝末期,中国との事大関係を象徴した西大門外の迎恩門(中国からの使節を迎えた)がとりこわされて建設された西洋式アーチの独立門(1897年独立協会の提唱により建設)が,高架道路の建設に伴って付近に移転され,その北方を中国国境に接する朝鮮民主主義人民共和国の新義州までのびる道路が〈統一路〉と名づけられていることなどは,現代のソウルの変容を象徴的に示すものであろう。李朝時代に李王家や両班(ヤンバン)貴族のみが享受した秘苑(昌徳宮の背後に広がる李朝初期以来の庭園)や隣接する昌慶苑(もと昌慶宮)は公園として市民に開放され,景福宮には国立中央博物館,徳寿宮には国立現代美術館が設置されるなど,文化施設として活用されている。また,植民地時代に柳宗悦が保存を訴えた光化門と景福宮の間にあった旧総督府庁舎が取り壊され,両者が一体としての景観を取り戻し,また後者の大規模な復原が進められている。かつての朝鮮神宮は解放直後にとりこわされ,現在はその一帯が南山公園となり,安重根義士記念館などが建てられている。植民地時代に威容を誇ったソウル駅などの赤レンガ造りの建物の多くはそのまま残されたが,市街の高層ビル化に伴い老朽化が目立ち,市内中央部の旧朝鮮殖産銀行などは徐々にとりこわされつつある。さらに,88年のソウル・オリンピックを契機として江東区に大オリンピック競技場が建設されるなど,ソウルの変容は拍車を加えている。

 ソウルの市内交通は,1960年代に市電が廃止された後はバスが中心だったが,1975年の地下鉄1号線(ソウル駅前~清涼里)開通を皮切りに,新線が続々建設され地下鉄網が整備されつつある。また,地下鉄に直通する電鉄が仁川市および水原市とを結び,沿線の富川,安養市などとともにソウルへの通勤圏となった。なお,市域の拡大にともない,漢江のはるか下流にあった金浦国際空港は江西区空港洞となり,ソウルの空の表玄関として大きな役割を果たしてきたが,すでに飽和状態のため,仁川沖合の永宗島に第2国際空港が2001年開港した。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ソウル」の意味・わかりやすい解説

ソウル
そうる

韓国(大韓民国)北部にある同国の首都。政治・経済・文化・交通の中心地。ソウルの本来の語意は、朝鮮語で国、都城であったが、一般には「都」という意味で使われる固有語で、漢字表記はなく、固有名詞ではなかった。面積605.5平方キロメートル、人口985万3972(2000)。行政区域は鍾路(しょうろ)区、中区、東大門区、城東区、城北区、道峰区、西大門区、麻浦区、竜山(りゅうざん)区、永登浦区、冠岳区、江南区、江西区、江東区、恩平区、銅雀(どうじゃく)区、九老区、広津区、中浪区、江北区、蘆原区、陽川区、衿川区、端草区、松坡区の25区からなる。

 ソウルの中央を東西に貫流する漢江を境に江北と江南に二分される。江北の北部には北岳山(342.4メートル)、西に仁旺(じんおう)山、東に駱(らく)山、南に南山(232メートル)があり、その中央にソウルの心臓部になっている盆地がある。江南には冠岳山(629メートル)、清渓山、南漢山(495メートル)がある。山地・丘陵の地質は南西部の花崗片麻(かこうへんま)岩と北東部の花崗岩の2地域に区分することができる。年平均気温11.1℃、1月平均気温零下4.9℃、8月平均気温25.4℃、年降水量1259ミリメートルである。

 ソウルは韓国全人口の約21%が住んでおり、また全国経済力の約65%を占める。江南の永登浦工業地区は仁川(じんせん)広域市に連なる京仁工業地帯の一部で、繊維、食品、金属、機械、化学薬品工場が多い。商業中心地には南大門、東大門、清涼里、永登浦市場などがあり、南大門路には韓国銀行をはじめとして各銀行の本店と百貨店、ホテルなどが密集している。世宗路には中央庁、政府総合庁舎、そのほか太平路に官庁、言論機関、会社の本社などがある。

 ソウルは交通の大中心地になっていて、とくに京仁・京釜両高速道路の始発地、鉄道の京仁・京釜・京元・京義・中央各線の起点となっている。地下鉄の1号線は1974年に完成し、ソウル駅から市庁、鍾路などを経て清涼里駅まで連結されている。環状線としての2号線、北西の旧把撥から南東の良才を結ぶ地下鉄3号線、北東の上渓から漢江の南(江南)の舎堂を結ぶ4号線も85年に完成した。西方郊外にある金浦(きんぽ)国際空港は15か国(1999)へ航空路網を形成していたが、2001年3月仁川国際空港が開港。これに伴い金浦空港は国内線専用となった。

 国立ソウル大学校をはじめ、高麗(こうらい)、延世、漢陽、成均館、中央、西江、東国、慶煕(けいき)、梨花(りか)女子、淑明女子などの総合大学のほか単科大学、専門大学がある。国立中央博物館、中央図書館、世宗文化会館、国立劇場、子供の大公園、オリンピック競技場、ソウル運動場、奨忠体育館などの文化施設が多い。

 そのほか、ソウル大学の跡地や新村にも若年層を中心とする小劇場などがつくられ、文化的な地区に変わってきている。

 ソウルは李朝(りちょう)500余年にわたる都であったので史跡が多く残っている。景福宮、昌徳宮、徳寿宮などの王宮、南漢山城、幸州山城、北漢山城などの山城、宗廟(そうびょう)、南大門、東大門などが昔の姿をとどめている。また近代の三・一独立運動で知られるパゴタ公園、清(しん)朝からの独立の決意を示した独立門などもある。

 韓国経済の発展とともに、1970年代から汝牟(ヨイ)島が重点的に開発され、その後、江南の永東地区が開発された。汝牟島には国会議事堂や証券取引所が建設され、江南には高層アパートが林立し、中産階層の大多数が移住するようになり、ソウルの重心は江北から江南に移ってしまった。

 政府はソウル偏重を防ぐため、1988年に開催されたオリンピック以後は、大田、大邱(たいきゅう)、釜山、光州などの都市を重点的に発展させ、ソウルは1000万人の住む首都として、過度の集中がおこらぬよう、整備を進めている。

[張 保 雄]

世界遺産の登録

ソウル市内では、宗廟(1995年)と昌徳宮(1997年)が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により、ともに世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部]

歴史

ソウルの地は古くは馬韓(ばかん)=百済(くだら)の領土であったが、5世紀なかば過ぎ、高句麗(こうくり)に占領され、南平壌ともよばれた。6世紀なかば以降は新羅(しらぎ)の支配下に置かれ、755年、漢陽郡となった。高麗初期は楊州(ようしゅう)と命名されたが、1067年、南京留守官が置かれ、以後、都市として発展し始め、南京あるいは中京ともよばれ、やがて開城、平壌と並ぶ三京の一つとなった。1308年、漢陽府と改められ、李朝に入ると、1394年、李成桂(りせいけい)がこの地へ遷都、翌年、漢陽を漢城と改名し、景福宮などの宮殿や官庁、周囲18.5キロメートルの城壁と四大門などを築き、城郭都市として一新、李朝初期の人口は約10万人に達した。以後、漢城(京城は俗称)は約500年間、李朝の王都として政治、経済、文化の中心地となった。壬辰倭乱(じんしんわらん)(豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略)の際、大半を焼失したが、やがて復旧され、18世紀末には人口20万人を数える大都市となった。しかし、1910年、韓国併合とともに日本は名称を京城とした。1945年の解放で初めて正式名をソウルと改称、大韓民国の成立とともにその首都となった。北朝鮮も、1972年の改憲で平壌を首都と改めるまで、憲法でソウルを首都と定めていた。ソウルは朝鮮戦争で破壊されたが、1960年代以降、近代的な高層ビルも林立する大都市となっている。

[矢澤康祐]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ソウル」の意味・わかりやすい解説

ソウル

韓国の首都。朝鮮半島中央の西部,京畿道の地域内にある特別市。ソウルは韓国語の固有語で漢字表記はなくハングルのみで表記する。25自治区からなる。旧市街は漢江北岸に位置し,周囲には北漢山など山が多い。韓国の政治・経済・教育・文化・交通の中心で,李朝の旧王宮であった景福宮・中央政庁・国会・各官庁・美術館・図書館・国立劇場・ソウル大学校高麗大学校・延世大学校・梨花女子大学校などがある。市の中心部を南北に横切る漢江の北の江北が古くからの市街地で,第1の繁華街明洞(ミョンドン)もあるが,南の江南が1990年代から新興住宅地,ビジネスセンターとして大規模に開発され,賑わいをみせている。日本統治時代には商工都市として繊維工業を中心に軽工業が発達。現在は商業・サービス業・製造業など,第2次・第3次産業が中心で,食品加工・繊維・化学・印刷工業が多い。ソウル〜仁川間は京仁工業地帯とよばれ,韓国最大の工業地区。京釜・京元・京仁・中央・京春各線の起点。金浦国際空港が国際・国内線の中心であったが,2001年隣接する仁川市の永宗島に仁川国際空港が開港,東アジア随一の国際ハブ空港となっている。三国時代から要害の地として争奪が繰り返されたが,1394年李朝の太祖(李成桂)が開城から遷都し,漢城と改称して以来,500年間李朝の首都であった。日韓併合後,京城と改称され,朝鮮総督府が置かれて統治の中心地となった。解放後,ソウルと改称,従来の日本式町名も一掃し,1946年8月特別市制をしき,京畿道の管轄からはずれた。朝鮮戦争では一時朝鮮民主主義人民共和国軍に占領された。1970年代以後,漢江南岸(江南)地区に住宅団地,バスターミナル,卸売市場,大学など各種施設が建設され,居住人口も急増している。また漢江中洲の汝矣島(ヨイド)が副都心として開発され,国会議事堂,証券取引所なども移転した。1974年―1985年に4号線まで開通した地下鉄網は,電鉄への乗入れと相まってベッドタウン化した衛星都市(城南富川安養果川など)を結んでいる。1988年のオリンピック開催はソウルの変容に拍車をかけた。江北の旧城内にある宗廟昌徳宮(李朝の王宮)は1995年,1997年に世界文化遺産に登録された。市内の中心を流れる清渓川(チョンゲチョン)は暗渠となっていたが,2005年復元工事を完成し,市街中心部の美しい都市景観を実現している。面積605.4km2。人口は1970年の553万人からほぼ倍増し,979万4304人(2010)。
→関連項目ソウルオリンピック(1988年)大韓民国南大門李朝(朝鮮)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「ソウル」の解説

ソウル

朝鮮半島中央西部,漢江(ハンガン)下流に位置する都市。ソウルとは朝鮮語で首都の意。李氏朝鮮以降たびたび戦乱で破壊されたが復興した。最初は1394年,太祖李成桂(りせいけい)が高麗の漢陽府を首都として漢城府(かんじょうふ)と改称,城壁都市が整備されたが,豊臣秀吉の朝鮮侵入のとき多くの王宮を焼失した。1910年(明治43)韓国併合で朝鮮総督府の設置とともに京城(けいじょう)と改称。朝鮮軍司令部・朝鮮銀行やのち京城帝国大学も設立され,日本の植民地支配の拠点となった。この時代に城壁の大部分が撤去され,都市・交通などの開発も進められたが,19年(大正8)独立を求める3・1運動の発火点ともなった。45年(昭和20)の解放後ソウルと改称。48年大韓民国の独立と同時にその首都・特別市となる。50年の朝鮮戦争では南北両軍の戦火で破壊されたが復興し,88年には第24回オリンピック大会が開催された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ソウル」の解説

ソウル
Seoul

朝鮮半島の中央部の西海岸寄り,漢江下流域にある大韓民国の首都
高麗時代の11世紀半ばに南京が置かれてから都市として発達し,李朝の成立とともにその都(漢城府)となり,以後500余年間,朝鮮の政治・経済・文化の中心として栄えた。文禄・慶長の役,清軍の侵入などで兵火を受け,壬午 (じんご) 軍乱,甲申 (こうしん) 政変などの中心ともなった。1910年日韓併合とともに京城と改称され,総督府が置かれて,日本の朝鮮支配の中心となった。第二次世界大戦後はソウル(首都の意)特別市として大韓民国の首都となった。四囲に山をめぐらす盆地で,古都にふさわしい名所旧蹟が多く,新しい近代的なビル街と新旧よく調和した都市美をつくっている。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ソウル」の意味・わかりやすい解説

ソウル
soul

音楽用語。元来「魂」に由来することばであるが,ジャズの演奏において,技巧よりも,その魂に回帰しようとする様式あるいは音楽。また,ブルースゴスペル・ソングなどの要素を取り入れて,1960年代にはアフロ=アメリカ系の新しい音楽のジャンルとして成立した。初期は黒人間の連帯を鼓舞する歌詞が多かったが,しだいに洗練された編曲が増えた。代表的な歌手にオーティス・レディング (1941~67) ,ジェームズ・ブラウン (1933~2006) らがいる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ソウル」の解説

ソウル
Seoul

韓国の首都。この地は朝鮮王朝時代に首都となり,漢陽または漢城と呼ばれたが,1910年の「韓国併合」とともに京城と改められ,朝鮮総督府が置かれた。45年8月15日の解放とともに,元来は「都」を意味する朝鮮語であるソウルと,名称が改められた。現在の人口は1000万人を超え,88年のオリンピック開催を契機に,世界的な大都市に成長している。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

音楽用語ダス 「ソウル」の解説

ソウル[soul]

'50年代末ごろから、黒人特有のフィーリングをあらわす言葉として使われはじめ、黒人音楽をソウル・ミュージックと呼ぶようになった。ゴスペルを基本とし、リズム&ブルースやブルースの要素が加わった音楽。それにソウル(魂)を感じさせるボーカルがのる。

出典 (株)ヤマハミュージックメディア音楽用語ダスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のソウルの言及

【ソウル・ミュージック】より

…第2次世界大戦直後に興ったリズム・アンド・ブルースが,ゴスペル・ソング,ジャズ,白人のポピュラー音楽などの影響をうけ,ワシントン大行進(1963)に象徴される公民権運動の高まりにも刺激されて,黒人の感性を洗練されたサウンドで表現する音楽形態として発展した。これをそれ以前のリズム・アンド・ブルースと区別して,ソウル・ミュージックと呼ぶ。黒人の民族意識が高まった1960年代には,黒人同士が〈ソウル・ブラザー〉と呼びあったり,黒人独特の料理を〈ソウル・フッド〉と呼んだりするのが流行していた。…

【ディスコ】より

…もとはイタリア語,スペイン語などで〈レコード〉を意味した(フランス語のディスクdisqueにあたる)。しかし1970年代後半から,ロックないしソウル系のダンス(ディスコ・ダンス),およびダンス向きに作られた音楽(ディスコ・ミュージック,ディスコ・サウンド)を指す言葉として広く使われるようになった。これは,1960年代にフランスで,ダンス・バンドの代りにレコードを使用するダンスホールを〈ディスコテークdiscoteque〉と呼んだことからきている。…

※「ソウル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android