藤原妍子(読み)ふじわらのけんし

朝日日本歴史人物事典 「藤原妍子」の解説

藤原妍子

没年万寿4.9.14(1027.10.16)
生年正暦5(994)
平安中期,三条天皇中宮枇杷殿皇太后と称される。藤原道長源倫子の娘。寛弘1(1004)年尚侍,次いで従三位に叙せられる。同7年,従二位に進み,東宮居貞親王(三条天皇)に入る。翌8年,親王の即位に伴って女御となり,長和1(1012)年には中宮に立った。翌2年に禎子内親王(陽明門院)を出産したが,天皇の外戚として摂関地位を確保しようと図る父道長は,女子の誕生に不快の色を露にしたという。寛仁2(1018)年,皇太后となる。万寿4(1027)年には,禎子内親王を東宮敦良親王(後朱雀天皇)に入れるも,病に倒れ,死に臨んで出家,34歳の生涯を閉じた。三条天皇は在位4年余で譲位し,彼女自身,親王を生むことはなかったが,大饗など折節の行事の際,仕える女房たちの華やかな装束で評判を集めていたことが,『栄花物語』などから知られる。

(西村さとみ)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原妍子」の解説

藤原妍子 ふじわらの-けんし

994-1027 平安時代中期,三条天皇の中宮(ちゅうぐう)。
正暦(しょうりゃく)5年生まれ。藤原道長の次女。母は源倫子。寛弘(かんこう)7年(1010)東宮にはいり,8年天皇即位で女御(にょうご),9年中宮となる。のち皇太后。枇杷(びわ)皇太后とよばれる。禎子内親王(陽明門院)を生んだ。万寿4年9月14日死去。34歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原妍子」の意味・わかりやすい解説

藤原妍子
ふじわらのけんし

[生]正暦5(994)
[没]万寿4(1027).9.14.
三条天皇皇后。道長の娘。母は源倫子。寛弘8 (1011) 年天皇即位により,娍子 (せいし) とともに女御となり,翌年中宮となった。同年 娍子も皇后となったため,一帝に二后が並立する形となった。

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