1336年(延元1・建武3)5月25日の摂津国(せっつのくに)湊川(兵庫県神戸市)における足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)軍と楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)軍との戦い。1335年(建武2)後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に反旗を翻した足利尊氏は、義貞軍を破って翌1336年1月入京したが、まもなく北畠顕家(きたばたけあきいえ)に追われて九州へ走った。しかし尊氏は同年3月2日筑前(ちくぜん)多々良浜(たたらはま)(福岡市)で九州最大の後醍醐方である菊池武敏(きくちたけとし)を破り、勢力を挽回(ばんかい)して4月3日博多(はかた)を出発、海路を東進して兵庫に向かった。これに対する後醍醐方は、楠木正成の提案した戦術、すなわちいったん京都を明け渡し、兵力を養ったのちに叡山(えいざん)と河内(かわち)の両方面から挟撃するという主張を退け、兵庫で迎え討つ態勢をとった。正成は5月22日弟正季(まさすえ)らとともに西下したが、一族親類が正成の軍勢催促に難色を示したことなどから前途の困難を判断し、子息正行(まさつら)を桜井駅(さくらいえき)(大阪府三島(みしま)郡)で河内に帰して、腹心の部下700騎ほどで決死隊を編成した。湊川を背に会下山(えげやま)に陣する正成軍と和田岬に陣する新田軍を割るように、尊氏軍の先発細川軍が和田岬に上陸し5月25日戦いが開始された。3時間16回にわたる死闘が繰り広げられ、正成軍は残兵73騎となり、自身も傷を受け、湊川の北の在家に入って火をかけ弟とともに自害した。この戦いは、後醍醐側にとってはもっとも強力な武将楠木正成を失った戦いであり、尊氏側にとってはまもなく成立する室町幕府への道を開いた重要な戦いの一つとなった。
[黒田弘子]
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